メチャクチャ悩んだり苦しんだり悲しんだり、笑ったりワクワクしたり頑張ったり、いろいろあったけど、とにかく一段落した。というところでこう言われたらどうするか。
「あなたがしたことは、ぜんぶ神の御心であり、ご計画だったんだよ。あなたがあれをしたのも、これをしなかったのも。神はお見通しだったんだよ」
わたしだったら両手を放り出して「知らん」って言って12時間くらい寝ると思う。
自分の行いは、あるいはこれまでの人生は、自分の自由意志で選び、頑張ったり頑張らなかったりした結果なのか。あるいは全てが神によってあらかじめ決められていたことなのか。自分であれこれコントロールしたつもりだったけれど、見上げると神がクイクイ糸を操っていたのか。
これはハムレット的に言えば「荒仕上げをするのは人間、最後の仕上げをするのか神」というやつで、「自由意志」と「運命」の不思議な共存の話だ。母の胎に入る前からわたしの生涯は計画されていた、という聖書の言葉はどう解釈すべきか。
祭司たちと取引してゲツセマネでイエスを売り渡すのに成功したイスカリオテ・ユダは、イエスの死刑を知って、後悔して首をつった。死後もし神に会って、「ぜんぶわたしの計画だったんだよ」とか言われたら、わたしだったらメチャメチャ怒ると思う。そんなの神による「自由意志詐欺」だろって思うから。なんて残酷な仕打ちなのだろう。
「裏切るのはユダの本心だった。そしてそれは同時に神の計画でもあった」
教会でそう聞いたことがある。でもそれって詭弁じゃない?
後出しジャンケンでいつも神が勝つことになっているゲームみたいなものでは。それに「神を裏切るようあらかじめ定められていた人間」とか、生まれてくる初期設定としてあまりにも酷いと思う。もしそれが事実ならば。
全てが神の計画だったと言うなら、じゃあもう何も頑張らないでダラダラ生きてもいいよね?
しかしダラダラ無為に生きた自分もまた「神の計画だった」ことになる。
逆にメチャクチャ頑張って何かを成し遂げたら、それはそれで「神の計画だった」ことになる。
なんかもうお手上げじゃない?
と言って上げた手も、神の計画だったんだよねきっと。ハハッ。
そもそも神のご計画って、私たち「人」にはわからないですよね。
返信削除後から振り返ってみると、神の計画“だったのかな”って思えるくらい。
はじめから「これは神の御心・計画だ!」って
とてもじゃなけど、自分は言えないっす。。。
一見すると、とても良いことのように思えても、後々それが自分を苦しめたり。
試練や不幸なことがあっても、それを糧にして
人として成長することができれば、その試練は神の計画かもしれないけど
試練を乗り越えることができなければどうするのか、、、
あと、ユダの命も神様は救いたかったんだと、あくまでも自分
後々になって「私はキリストを裏切ったけど、こんな私でも、主の愛によって私は立ち直った」って言ってほしかったんじゃないかな。
パウロが「わたしは教会を迫害した」という十字架を背負ったように。
神様の計画があったとしても、それをどう生きるか、どう選択するのか
悩みながらも、もがきながら呻きながら祈りつづける
自分の思いを神様にぶつけ、神様の道は?御心は?
と迷いながらも進んで、時には後戻りしたりして、
結局はそれが主の導きかどうかは 死ぬまでわからないとおもうけど
周りの人からみて、主に導かれた人生だったねって最後の最後に言われるように生きたいです。
「生まれる前から預言者として聖別され…」というのは、エレミヤやパウロが語っていたことと思われます。
返信削除もちろん、これは哲学的な決定論を述べたものではなく、エレミヤやパウロの預言者や使徒としての使命の不可避性を述べたものでした。
たとえば、現代でも恋愛の絶頂にある恋人たちが「私たちが出会い、結ばれるのは、偶然ではなく運命だったんだ」と言うときがあります。これは、他の人を選ぶ自由はあるが、事実上、目の前のパートナー以外の人を選ぶことは考えられないがゆえに、選択の自由は存在しないということです。
それゆえに、エレミヤやパウロが「生まれる前から選ばれた…」と言うとき、それは「たとえ、貧困や迫害や死が私を襲うとしても、私はこれ以外の在り方はできない!福音を伝えないとしたら、私はわざわいである。私がこのようなものだから、私はこのように創られたのだ。外部の力に動かされるように、私に選択の自由は存在しない。」ということです。
イスカリオテのユダについては、外典に「ユダの福音書」がありますね。ユダの福音書では、伝統的な評価とは異なり、ユダの裏切りはイエスを十字架へと赴かせた神的な行為として評価されております。是非はどうであれ、イエスの十字架における救済のわざにユダのイエスの引き渡しもセットで含まれていた、ということが言いたいのであろうと思われます。
私はユダが地獄行きだとは思いません。「滅び(失われた)の子と書いてあるじゃないか」と言われるかもしれませんが、あれは結果として12弟子のなかからイエスを離れる者がでた(聖書の預言を成就するために)、というだけであって永遠の滅びを示唆するものではない。事実、ユダはイエスを売ったことを後悔した。しかし、ユダはイエスが「生まれないほうがその人のためによかった…」と言ったとうり、自分の生を呪って自殺した。ペテロもパウロもイエスを否定したが、イエスを再び拾い上げることによって自分の存在も再び拾い上げた。ユダの自殺は、命の主であるキリストを捨てることは、自分の存在を捨てることになるということを意味しています。ユダのあやまちは、イエスを裏切ったことではなく、イエスにおける神の愛と許しを信じることができず、自分で自分を捨ててしまった、ということにあるのです。
キリスト教の理解がややこしいのは、ユダヤ―キリスト教の伝統が神を唯一のものとしか認めないからです。神は全能で、かつ善である。しかし、現実には悪が存在している。だとすると、悪は神と独立に存在しているのではなく(悪が神と独立していれば神は全能ではない)、神の内にあり、かつ悪は神の善の計画のなかに不可分の要素として含まれている、と考える他はない。
このような一神教的な見方をせず、世界を善の神とその勢力、悪の神とその勢力の抗争の場として考えることができたなら、どれだけ楽でしょう。ゾロアスター教がこのような世界観をもちます。とてもわかりやすいので、ファイナルファンタジーなどのファンタジー系の小説、漫画、RPGなどの世界観の下じきになっております。これは、善悪二元論です。この世界観では、悪は殲滅すべきものとしての意味しかもたない。悪を知的に理解しようという動機付けはうまれてきません。
しかし、聖書ではこの見方はできません。神は唯一で、対立する神など存在しないからです。悪魔、サタンが聖書にでてきますが、悪魔は旧約聖書においては神の天使のひとりで、神の意志によってあえて野放しにされている。ヨブ記においては、悪魔が人間に害を加えるのは、人間が御利益(ごりやく)を期待して神を信じるのか、それとも無条件の信頼でもって神を信じるのかを「試す」存在として神にあえて野放しにされ、自由を与えられている。
そもそも、なぜ神はエデンの園でアダムとエヴァが誘惑されるがままにしておいたのか? これは神のミスだったのか? もちろん、神の意図はわからない。しかし、イエスの「放蕩息子の譬え」から、こう言えるでしょう。神は、人が無知で、神以外のものを知らないがゆえに敬虔であることよりも、神以外のものを知り、エデンの外側を知り、世界と人生の全ての苦しみ、喜びを経験し、遍歴したうえで「やはり救いは神にしかない。帰ろう、神の国へ。」と言って「知的」に神を「選ぶ」ことを望まれたということです。
それゆえ、私たちには全てが許されている。神を疑い、神に抗議することも、存在を信じないことも。信仰を捨てることも。教会を去ることも。全てが許されている。「つむじ風」のなかから神が語りだし、ふたたび神の真実を見出して神の国へ帰るために。