他人の苦しみを「尊い犠牲」と呼ぶ暴力

2022年3月29日火曜日

キリスト教信仰

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 「子どもが職場でパワハラを受けて大変です。お祈り下さい」と聞いて大変同情した。何かできることは(祈り以外に)ないか、と考えた。けれど、「他にも被害に遭った職員がいるのですが、うちの子が一番被害が酷くて、きっと他の人を守るために神様がうちの子を犠牲にしたのだと思います」と真剣に話していて、絶句してしまった。一方的に人身御供にされたお子さんの気持ちはいかに(お子さんもその場にいた)。

 その親御さんは、そう思うことで「苦しみの意味」を見出したかったのかもしれない。けれどそう言われた子どもは、「神様が私を一方的に苦しめた。私をみんなの犠牲にした」と思ってショックを受けるかもしれない。神様は私を愛しておられるのではなかったのか、と。


 苦しめられた本人が、自らそういうふうに考えることで「苦しみの意味」を見出せるなら、ある程度納得できるのかもしれない。けれど親から言われてしまったら、神からも親からも見捨てられたように感じるのではないだろうか。神様が誰かを意図的に犠牲にする、という考え方は、少なくとも他人(もちろん自分の子どもも他人だ)に勝手に当てはめるべきでないと思う。それ自体が暴力であり、二次加害となるから。


 だいいち、何か酷いことが自分に起こったとしても、「神様が自分を犠牲にした」と断言することは誰にもできない。神様の意図は、人間には分かりようがないのだから。それは一方的に決めつけることでしかなく、むしろ神に対する不遜でさえある。


 ヨセフが兄弟たちに売られてエジプトで奴隷にされた件を、「後に飢饉から人々を救う為だった(神の計らいだった)」というのは教会で定説のようになっているけれど、聖書をよく読むと本人がそう言っているだけで、神の計らいだと神様ご自身が宣言したのではない。もしヨセフが売られもせず、奴隷にもならなかったなら、神様は飢饉から救う別の方法を用意したのではないかと思う。ヨセフの犠牲を美化したい意図が見える解釈ではないだろうか(冒頭の親御さんと同じように)。


 苦しみに意味や価値や「神様の特別な計らい」を見出したいクリスチャンは多い。確かにヨセフのケースだけ見れば、そう見えなくもない。ではディナやタマルが強姦されたことに、どんな「計らい」があったのだろうか? そして「計らい」があったなら、その非道は「仕方のないもの」として許されるのだろうか? もし許されるなら、ディナやタマルが強姦されるよう仕向けたのは神様ご自身だ。誰がそんな非道な神様を信じるのだろうか。


「団の皆を守るために犠牲になってくれ」という言葉の衝撃


 最近『ソ連兵に差し出された娘たち』という本が出版された(2022年3月)。敗戦後の「満洲国」に取り残された日本人開拓団は、現地人からの略奪や暴力から身を守るため、娘たちをソ連軍に「接待」に差し出した。「みんなのための」犠牲にさせられた彼女らの叫びは押し潰される。いつの時代も、共同体を守るため、自分たちを守るため、最も弱く小さい者たちが意図的に犠牲にされる。


 そしてそれは他人を苦しませておいて「尊い犠牲だ」と美化する行為に繋がる。キリストの犠牲を美化するキリスト教にとって他人事ではないと思う。苦しむことや犠牲になることは、誰だって避けたいはずだ。であるならそれを他人に押し付けてはいけない。

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