クリスチャンが行動する動機を「神に語られたから」とか「導かれたから」とかに置く落とし穴は、失敗したり結果が出なかったりした時に、「やっぱり導きじゃなかった」と簡単に諦めてしまう点だ。そもそも動機を外部に(ここでは神や導きに)求めるのが間違いだと思う。自分の行動の動機は自分のものでないと、続かないし、責任の所在もはっきりしない。
しかし福音派系の教会では「何をするにも神の導きを求めなさい」と教えられる。何か活動を提案すると「(神の)導きならやりましょう」と言われる(それは暗にNOと言われているようにも思える)。しかし何が導きで、何が導きでないかの判断基準は曖昧だ。「強く示された」と主張する人もいるが、主観でしかない。しかしそう教えられるから、形だけでも「導き」を求めなければならなくて、みんなで教会を上げて茶番をやっているような有り様にもなってしまう。「導きかどうかよく分かりません」と正直に言えないのだ。
「神に導かれた」と言って海外留学した人が、数ヶ月で帰国して「導きじゃなかった」と弁明した。そして国内の神学校に入学した。が、そこも数ヶ月で退学し、やはり「別のところに導かれている」と言う。そんなことを繰り返し、あちこち転々としているのを見ると、あなた自身はいったい何がしたいのですか? と聞きたくなる。それが本当に「導き」だとしたら、神様はずいぶんいい加減な、計画性ゼロな方になってしまうのではないだろうか。
行動の動機を神に求めるのは、その行動の結果トラブルが起きた場合に「神様がこう導いたからだ」と逃げ道を作ることでもある。昔「携挙」の日を指定した人がいたが、結局その日がきても何も起こらなかった。その人がどう言い訳するのか私は注目していたが、案の定「神様に語られた通りに自分は言ったまでです」と責任転嫁していた。自分は従順に従っただけの被害者だ、と(とんでもない冒涜だと思うのだが)。
聖書には「神は人の心に願いを起こさせる」という一節がある。であるなら「こうしたい」という願いは神から発せられたもののはずだ。クリスチャンはそこに信頼すべきだと思う。そしてやりたいと思ったことは(公序良俗に反することでなければ)とりあえずやってみればいいと思う。「導きを教えて下さい」でなく、「これこれをするので助けて下さい」と祈ればいいのだと思う。それこそが主体的な、自立したクリスチャンの態度ではないだろうか。
私がこうしてキリスト教関連の問題提起をしつこく続けているのは、神に語られたからでなく、導かれたからでもなく、「自分は絶対にこれをしなければならない。失敗しようが非難されようが、どうしてもやめるわけにはいかない」と思っているからだ。私にとってこれ以上ないくらい切実な動機だ。それを神が反対するなら、神に文句を付けるつもりでいる(そこにどういうコミュニケーションが発生するかは知らないが)。なので正直、「神様に導かれたからやります」というのはずいぶん甘い動機ではないだろうか、と思ってしまう。