看護師のフルタイムの仕事を辞めて、いわゆる「教会スタッフ」として教会でフルタイムで働いた時期がある。それだけ信仰熱心だったのだ(と自分では思っていた)。給料は半分以下になり、労働時間は倍以上になったけれど、「神様のため」という自負心や満足感が、それを補っていた(実際に楽しい部分もあった)。
正直、献金する余裕はなかった。食べるにも事欠くくらいだったから。逆に恵んで欲しいくらいだった。幸い奉仕が忙しく、礼拝中は会衆席にいなかったので、献金袋が回される心配はなかったけれど(当時、礼拝献金は1円も捧げていなかった。もう自分自身が捧げ物ですという心境だった)。
「たくさん献金できない」と真摯に悩む人をたまにSNSで見かけるけれど、自分の生活を第一に考えてほしい。献金額で評価されることなんてないから。教会はお金を必要としてるけど、神様は必要としてない。献金は無理のない範囲でいいし、額が少ないからと罪悪感を抱く必要もない。教会によっては「硬貨でなく札を捧げるべき」などと勧めるけれど、無視していいローカルルールだと思う(従うのは妨げない)。どうか金銭的にも健やかな教会生活を送って欲しい。
礼拝ごとに千円札を捧げる(=毎月四~五千円)のがマナーだ、みたいな言説は、あくまでブルジョワ向けだと思う。だったら五百円を捧げて、余った五百円でお子さんやパートナーにスイーツでも買ってあげてほしい。家の中が笑顔で平和なのが、一番の「神の祝福」だ。
もちろん教会にたくさん捧げたいと願っていて、実際に捧げる力があるのなら、好きなだけ捧げればいいと思う。教会がお金を必要としているのは事実だから。しかしそれをみんなに押し付けたり、「貧乏してでも捧げるのが信仰だ」などと脅したりするのはやめてほしい。
「これこれの額が揃わないと会堂が建てられない」「神の計画が実現できない」「神の国を拡大できない」などと言って献金させたがる教会があるけれど、信徒を貧しくさせて教会の建物だけ立派になるのは、本末転倒ではないだろうか。弟子がイエスの足を洗ったのでなく、イエスが弟子の足を洗ったのだ。
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クリスチャンは貧しくなるべき? |
自分は当時貧しすぎて、健康保険も年金も払えなかった。だから役所によく相談に行ったけれど、「こんな者ですみません」みたいな卑屈感が拭えなかった。お金がないと、尊厳までなくしてしまう。
「だったら看護師として働けばいいのでは」とか言われそうだけど、当時は薄給で教会に仕えるのが「信仰」だったし、「名誉」だったし、「神の御計画」だった。貧しさに甘んじるのも「特権」だったし、お金であれこれ苦労するのは「イエスに倣う道」だった。すっかりそう信じていたのだ(だからこそ耐えられた面がある)。
信仰の危険な側面の好例だったな、と今振り返って思う。私の経験を反面教師にしていただければと思う。