「癒し」の信仰を持つことで一番しんどいのは、全然「癒されない」こと。
まわりの人達の「癒され体験」とか、海外由来の「すごい癒しの話」とかはかえってプレッシャーになりやすい。なぜ自分は癒されないのか、何が問題なのか、と葛藤するから。そして「癒されない理由」を自分なりに色々考えて、納得しなければならなくなるから。
「癒されない理由」の例↓
・(神は癒すこともできるが)今は癒されない方が自分にとって良いことなのだ。
・神はこの試練を通して自分に何か教えようとしているのだ。(=それが分かるまで癒されない)
・自分は癒しばかり願ってきたが、神の願いは他にあった。そこに目を向けるべきだった。
そんなふうに考えて、頑張って納得しなければならない。
その「信仰」は本当にあなたを「自由」にしているだろうか。むしろ人に言えない「癒し」の願望を胸に溜め込むことにならないだろうか。
自分の教会はアメリカから毎年、有名な「癒しの器」を呼んで、「癒しの集会」を大々的に開き、毎回大勢集めていたけれど、「癒された気がする」程度のことしか起こらなかった。それでも「ハレルヤ」と喜び、「恵まれました」と感謝する。それを毎年繰り返す。「癒しの信仰」のみじめな末路だったように今は思える。
「癒し」の信仰はどうしても「○○が癒されました」という体験談を必要とする。実際に起こると言わなければ(信じなければ)維持できないから。しかしその結果「なぜ自分はこんな苦しいのに癒されないのだろう」という二次的な(そして全く不必要な)葛藤を生む。それを否定するのは自分が癒される可能性をも否定することになるから、できない。信仰の八方塞がり。
「癒し」の信仰を持つこと自体は個人の自由かもしれない。けれどそれを広めることで「癒されなければならない」とか「癒されないのは自分の信仰が足りないからだ」とか「祈りが足りないからだ」とか、自分や他人を苦しめ追い詰めることに繋がる。それは有害なことではないだろうか。さらに病んでしまうかもしれない。
聖書の「長血の女」の葛藤は、今や教会の中で起こっている。
特に自分の病気や家族の病気で真剣に悩む人は、藁にもすがる思いだ。「◯◯すれば癒される」と聞けば、容易に信じ得る。しかしその結果はどうなるだろうか。ひどい失望を与えることにならないだろうか。何の保証もできないのに、そこに付け込むのは卑劣なことだ。キリスト者のすべきことではない。
「癒し」の信仰に悩む人に確実に言えるのは、その信仰を捨てた方が楽になれる、ということ。信仰はあなたを苦しめるものではないから。信仰のことで苦しんでいるとしたら、それは何かが間違っているサイン。