人は聖書だけで生きるのではない

2020年8月8日土曜日

キリスト教信仰

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 自分がキリスト教関連の発信を頑張ってるのは、自分が教会でキツい体験をしたからというのが大きい。けれど4、5年前にあるクリスチャン(?)から「こんなやつ小物」と馬鹿にされたことがあって、それがメチャクチャ悔しくて、腹が立って、「絶対負けない」と思ってやってきたから、というのもある。

 もちろん、だからと言ってその御仁に感謝するなんてことは、一切ない。


 何年も前にネットのどこの誰かも分からない人に投げつけられた「こんなやつ小物」という一言を、今もはっきり覚えていて根に持っている、というのもどうなの? と自分で思う。けれど要は、「被害」とはそういうものなのだ。加害側はすぐに忘れてしまうけれど、被害側はいつまで経っても忘れられない。足を踏んだことに気づかなくても、踏まれた方は痛い。


 たった一言でそれなのだから、暴力とか、性暴力とか、パワハラとかモラハラとかがどれだけ人の心を抉って傷つけるか、想像できない。それだけで人生は地獄みたいになってしまう。そんな壮絶な痛みの前には、申し訳ないけど、聖書の福音なんて何の役にも立たないのではないか、と思ってしまう。


☆ ☆ ☆


「辛い経験をしたけれど、そのおかげで今の自分になれた」というのは本人がそう解釈するから良いのであって、他人が押し付けるものではない。聖書の「苦しみにあったことは幸いでした」とか「神の栄光が表されるためです」とかを引用して、苦しんでいる人に押し付けるのは、良識あるクリスチャンの方には厳に控えていただきたい。


「お前が苦しんだのは神の御心であり試練だったんだよ」みたいな言葉を投げつけられたこともある。まったく許し難い。もし神が「試練」として自分や誰かを苦しめたのだとしたら、はっきり言って神のことも許し難い。

 それで「許さないと地獄へ堕ちる」とか言われても、は? だから何? としか思わない。そんな言葉を投げつけるクリスチャンと一緒に天国に入るなら、自分は地獄へ行きたい。


 聖書の言葉は「もろばの剣」と書かれている通り、解釈の仕方、使い方次第で人を傷つける凶器になる。そのことを十分理解するには、聖書を読んでいるだけでは不可能だ。様々な本を読み、様々な言葉に触れ、様々な考え方を知り、様々な体験をすることで、聖書の絶対性を(自分の中で)相対的なものに変換していかないと、その言葉に縛られてしまう。そして人を傷つけることを何とも思わなくなってしまう。


「人はパンのみで生きるのではない」と聖書は言う。

 けれど自分は「人は聖書だけで生きるのではない」と言いたい。

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