聖書は神様からのラブレターか、ガイドブックか、それとも○○か

2020年8月10日月曜日

キリスト教信仰

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「聖書は神様からのラブレター」と言われたりするけれど、自分だったらもらったラブレターに「目玉えぐり出せ」とか「右手切り落とせ」とか書かれていたらだいぶ引くと思う。脅迫状か何か? と思ってしまう。


 ちなみに「聖書は人生のガイドブック」とも言われたりするけれど、このまま看護師として頑張るべきか保健師になるべきかで迷った時に、どのページを開くべきかは分からない。あんまり具体的にガイドされてる気にはならないと思う。


 ただ真面目な話、聖書に書かれている価値基準や考え方、優先順位などを取り入れることで、いわゆる「キリスト教的な」選択や判断はできるようになると思う。


 たとえば自分が急いでいる時に、道端で倒れている人に遭遇したらどうするか。そのまま素通りするのでなく、時間を割いてその人を介抱する方が、聖書の価値基準に近いはずだ(「良きサマリヤ人」のたとえに近い)。

 もちろんそれによって自分の用事を潰してしまうので、一定の犠牲が強いられる。けれどその自己犠牲によって「キリストに倣うことがことができた」という宗教的満足感を得ることができる。


「聖書を文字通り行う」のでなく、「聖書の考え方を参考にする」というイメージ。


 そもそも「聖書を文字通り行う」のは無理がある。冒頭の通り、目玉を抉り出したり、右手を切り落としたりしなければならなくなるから。他にも女性は教会では沈黙を守らなければならないとか、けっこう無茶な要求が散見される。とても全部は不可能だ。

 だから「聖書の考え方を参考にする」程度がちょうどいい。


「聖書を文字通りに行うのが信仰だ」と主張する人もいるけれど、そのあたりの不都合を無視してはいけない。


結論:聖書は神様からのラブレターやガイドブックでなく、神様からの参考書。

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