「人を殺してはいけない」のは神の命令だから?

2020年8月6日木曜日

キリスト教信仰

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 アブラハムは息子イサクを殺すよう神に命じられた(創世記22章)。現代的な感覚では躊躇する命令だろう。もし今あなたが家族を殺すよう神に「語られた」ら、快くYESと言えないのではないか。


 だがアブラハムは躊躇しなかった。それは一つは、神への従順を重視したからだろう。しかしもう一つは、当時は今のような刑法がなく、ついでに言うとモーセの律法も与えられる前だったから、「人を殺してはいけない」という明文化された決まりがなかったからかもしれない(このエピソードが史実か創作かの議論はここでは置いておく)。


 そしてそうだとしたら、「人を殺してはいけない理由」とはいったい何だろうか。


「人を殺してはいけない理由」をキリスト教に求めると、「神が禁じているから」という答えがサッと返ってきそうだ。では逆に尋ねるが、もし神が禁じなかったら(繰り返すが、律法成立以前はそうだった)殺してもいいのだろうか?


「神が命じるから○○しない」という考え方は、「神が命じていないから○○していい」という考え方とダイレクトに繋がっている。思考停止的で危うい。


 一方で、律法を与える前であるにもかかわらず、アベルを殺したカインを神は罰した。殺人を「悪」としたのだ。またカインもアベルをわざわざ野に誘い出して(見られないようにして)殺した。カインも殺人を「悪いこと」と認識していたのだ。十戒も律法もまだなかったのに。


 ということは、「人を殺してはいけない」という感覚を人間は原初的に持っているのだろう。神の命令や禁止よりも以前に。

 その証拠に、たとえ神が禁じなくても、たとえ日本国の刑法が存在しなくても、あなたは「ちょっと気に入らないから」というような理由で、通りすがりの人を簡単に殺そうとは思わないのではないか。


☆ ☆ ☆


 福音書で、イエスは律法の禁止をいくつか犯している(安息日の労働規定など)。神が与えた律法を、神(イエス)自身が犯した、というような形だ。けれどそれは他者を愛する為だった。

 これは神の矛盾だろうか。それともわたしたちが律法を誤解しているのだろうか。


 別の箇所で、「わたしが求めるのは(他者への)憐れみであって(律法を守ることによる)犠牲ではない」と聖書は言っている。「愛は律法を全うする」とも言っている。


 つまり律法を全うするために誰かを傷つけるとするなら、それは律法に反する、ということだ。神の命令に従って息子を殺す、というのが神の意志に反するのと同じだ(事実、神はイサクを殺させなかった)。律法のパラドックスがここにある。イエスもそこを指摘している。


 神は愛である、と聖書は何度か言っている。つまり神の意志は人を愛することであって、害することではない。救うことであって、滅ぼすことではない。

 そしてそれは、わたしたちが原初的に持っている「人を殺してはいけない」「人を害してはけない」という感覚とも一致している(それ自体が神によるデザインかもしれない)。


 であるなら、「人権より神権が優先される」とか「男尊女卑も神の秩序だ」とかいう誰かを害する言説は、まったくナンセンスと言う他ない。聖書を振りかざして人を差別し傷つける「クリスチャン」たちには、そのあたりをよく考えてほしいと思う。

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