現代の「良きサマリヤ人」は

2020年8月3日月曜日

キリスト教信仰

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「良きサマリヤ人」の話みたいに道端に倒れている人がいたら、多くのクリスチャンは声を掛けると思う。分かりやすい「助けるべき相手」だから。


 自分の行動範囲内の、いつも歩く道、いつも行く場所に、そのように倒れて苦しんでいる人とか、道に迷って困っている人とかがいたら、多くの人は積極的に助けるだろう。分かりやすいから。助けない理由がないから。そしてクリスチャンであれば、「良きサマリヤ人になれた」と嬉しくなったり誇らしくなったりするから。


 手助けする機会されあれば積極的に手助けしたい、と思う人はきっと多いと思う。


 ただ現代の複雑化した社会の中では、「助けるべき相手」は、見ようとしないとなかなか見えてこない。だからよく考えないまま、見える範囲だけ見回して、「自分のまわりに困っている人はいない」という結論に簡単に至ってしまう側面がある。


 たとえば日本は格差社会や貧困の拡大が叫ばれて久しい。子どもの7人に1人は貧困層だと言わていれる(2019年の国民生活基礎調査より)。子ども食堂の数も増えている。けれど実際にそのような子を見たことがあるだろうか。

 現実には、それに関わる仕事や活動をしていないとなかなか見る機会がない。そして「見えない」から、「自分にできることはない」と思ってしまう(何かしろ、という話ではない)。


 差別問題も同じだ。

 差別について、(日本では)学校でもどこでも誰も自動的には教えてくれない。何かのキッカケを得て、自ら学ぼう、知ろうとしないと全然見えてこない。そして日常的に(社会構造的に)差別を受けている人々に会おうとするのはもっと大変だ。結果、わたしたちマジョリティ側の「日常」には、彼らは「見えなく」なっている。


 差別に困っている人、苦しんでいる人は実際には沢山いて、やろうと思えば何かできるはずなのに、「差別はいけないよね」という軽い標語で終わってしまっている。そういう現状がある。


 だから現代の「良きサマリヤ人」は、旅路で偶然見つけた被害者を介抱するのでなく(それも大切だけれど)、自ら社会に出て行ってその構造を学び、その構造の中で制度的に苦しめられている人々を見つけ出すフィールドワーク的なことから始めなければならないと思う。


 教会の中で祈ってるだけでは、いつまで経っても「良きサマリヤ人」にはならない。


☆ ☆ ☆


 新約聖書の「良きサマリヤ人」のたとえは、当時のユダヤ人に向かって語られた。そしてサマリヤ人と言えば、ユダヤ人にとって忌むべき存在、避けるべき存在だった。サマリヤ人の側にも、きっとユダヤ人に対する負い目や劣等感、憎しみや怒りがあっただろう。

 だからこそ、倒れているユダヤ人を助けたサマリヤ人は「良きサマリヤ人」と呼ばれるのだ。


 これを現代に当てはめるとどうなるだろう。同じ教派や教会のクリスチャン仲間に親切にしても、「良きサマリヤ人」にはならない。そうでなく自分と異なる人たち、できれば関わりたくない人たち、あるいは嫌いな人たちに自ら手を差し伸べ、親切にすることが求められるのではないだろうか。


 もちろんそれは簡単なことではない。むしろ難しいだろう。小さくない犠牲が強いられると思う。だから「良きサマリヤ人になりなさい」とはわたしは言わない。これを読んで下さっている方にそれを求めようとも思わない。ただ「良きサマリヤ人」になるとはそういうことなのだ、と言いたいだけだ。


 ただ礼拝説教で「良きサマリヤ人」について語られた時に「良きサマリヤ人とならせて下さい」と祈る人には、本当にそういう覚悟があって祈っているのですか? とは問いたい。

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