救いの条件?

2020年8月24日月曜日

キリスト教信仰

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 手グセの悪い知的障害の人がいて、店内では注視してないと万引きしてしまう(本人に万引き=犯罪という自覚はない)。今のところ事件になったことはないけれど、もしなったら本人が(自覚も理解もないだけに)怖い思いをして、大きなダメージを負いかねない。聖書の「盗んではいけない」を文字通りに適用できないケースは、考えてみればこのように沢山ある。


「神の救い」とか「神の恵み」とか「神の赦し」とか、その仕組みをちゃんと理解しないと受けられないのだとしたら(「福音の三要素」とか)、もう生まれた時点で神から何も受けられないと決まった人たちが続出してしまう。それを肯定してしまうなら、キリスト教は少なくとも福祉の分野に絶対かかわることができない。「救われない」人を救うことはできないのだから。


「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」と聖書はたしかに言っている。けれどその一節だけ取って「救いの絶対条件」とするならば、前述の通り「生まれながらに救われない人=生まれない方が良かった人=生まれるべきでなかった人」という優生思想そのままの考え方になる。キリスト教はこれに対してどう答えるのか。


「障害のある人や乳幼児はそのままで救われているんだ」と安易に言う人もいるけれど、どの程度の障害レベルまでがその適用範囲なのか? 乳幼児なら何歳までが「救われている」範囲なのか?(何歳を越えたら自動的な「救い」から漏れてしまうのか?)といった具体的な基準は聞いたことがない。「原罪」の概念も(声高に主張するわりに)あやふやなままだ。


 自分も昔は「○○でないと救われない」と厳格に考える律法主義者だった。けれど不誠実な教会の姿を見せつけられたり、仕事で障害のある人々とかかわったりする中で、考え方が変わった。今は職場で顔を合わせる人たちが全員「地獄」に行くなら、自分も一緒に行きたいと思っている。律法主義者たちだけの「天国」より、彼らがいる「地獄」の方が楽しそうだから。

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