「御心」という落とし穴

2020年7月9日木曜日

「奉仕」の問題

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「神の御心でなければ実現しない」というのは、逆に言うと「実現したら神の御心だった」ということ。その一言でそれまでの全てが正当化され、「神からのもの」とされる。
 その過程で誰かが傷ついたり犠牲を払わせられたりしても、「御心だった」とか「神のためだから仕方がない」とかで済ませられてしまう恐れがある。

「神様の為に」という大義名分のもと、寝る間を惜しんで働き(働かせられ)、心身ともにボロボロになって、ついに実現。すると「御心だったから実現したんだ」と言われる。そして新たなプロジェクトに駆り出される。終わらないループ。「御心」に踊らされる悲劇。

 こういうことが異端的な教会でなく、正統を謳う教会で起きている。だから異端かどうかは全然重要でなくて、いわゆる「教え」をどう適用するか(利用するか)に掛かっている。
 教会は人を救いもするけれど、残念ながら人を殺しもする。

「御心が地で行われるように」という祈りがあるけれど、実際的に「行う」のは私達人間。その私達が「全能なる神の御心」を行おうとしたら、(神は全能だから何でもできるし24時間働き続けられるしどんなことでも解決・実現できるので)それこそキリがない。いくらやっても「まだ足りない」となる。だから「御心を行う」のも限度が必要。私達が働きづくめでボロボロだったら、神様も喜ばないと思う。 

 しかしカルトな教会で「もう疲れました」と正直に言うと、「不信仰だ」とか「祈りが足りない」とか「罪があるからだ」とか「乗り越えるべき試練だ」とか「この苦難を通して神様があなたに語りかけているのだ」とか言われて叱られる。真面目な人は反論しないで自分が悪いと思ってしまう。結果、抜けられない。

「異端カルト」とくっつけてしまうのは危なくて、異端は異端、カルトはカルトで全然別物として考えるべき。でないと「自分の教会は正統派だから大丈夫」となってしまう。正統派だろうが何だろうが、カルト化はする。そこでは「御心」という良いものも悪く利用される。
 あらゆる良いものが、教会でもどこででも悪く利用され得る。

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