「白く塗った壁」はもうやめよう

2020年7月11日土曜日

あるある

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 一昔前までクリスチャンは「感謝」や「恵み」や「喜び」しか語っちゃいけない雰囲気があったと思うけれど、最近は若い世代を中心に正直な葛藤や嫌だったことや腹が立ったことを素直に表明してくれていて、とても良い流れだと思っている。ツイッターの中だけだとしても、そういう場があるとないでは大違い。

 負の感情をひたすら覆い隠して、無理にでも喜んだり感謝したりするのが「信仰」や「クリスチャンらしさ」だと言われて育った人も多いと思う。でも結局取り繕ってるだけの(言葉が悪いけど)偽物で、それに対するカウンターがネット世代や若い世代に起こっているのではないだろうか。

 ある時、明らかに不幸な目に現在進行形で遭っているクリスチャンが、教会の皆の前で「証」をした。その内容は「神様にいつも感謝です」とか「こんな私も神様に愛され、祝福されているので嬉しいです」とかのポジティブワードで満ちていた。詳しいことは何も語らずに。その人の葛藤を知るわたしは、なんて空虚な言葉の羅列だろうと思った。

 なぜそこまで耐えて、綺麗な言葉を無理やり吐かなければならないのだろう。なぜ正直な葛藤を口にしてはいけないのだろう。雰囲気が悪くなるから? 不信仰に思われるから?
 そうやって見映えを取り繕うだけの律法学者たちを、パウロが「白く塗った壁」と評したことをリマインドしたい。あなたは空虚な「白い壁」になっていないだろうか。

 ネットやSNSの恩恵の一つは、「自分だけじゃなかった」という発見だと思う。誰にも言えずに1人で抱えてきた葛藤が、実は自分だけのものではなかった、という発見だ。そこに共感や連帯感を得て救われた人も少なくないはず。

 そしてそれはキリスト教信仰に限った話でなく、様々な分野やレベルの「自分だけじゃなかった」「1人じゃなかった」があると思う。あなたは1人ではない。もう「白い壁」など演じなくていい。

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