「自殺は罪」と断じる罪

2020年7月25日土曜日

自殺とキリスト教

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「自殺は罪」と断言するクリスチャンは、自殺者の遺族や自殺企図・未遂者には関われない。関わってほしくもない。傷を広げるだけで完全に有害だから。


 自殺せざるを得なかった人の多くはそれ以前に「社会構造的な罪」の犠牲者であり、様々な事情で自殺以外の選択肢を取り上げられてしまったのであって、その意味で「殺された」のと同義だと知ってほしい。「勝手に自殺する方が悪い」など、口が裂けても言えない。そういう境遇でなく、そういうことを考えたこともなく生きてこれた人は、その幸運を感謝すべきだと思う。


 たとえば部落差別が今よりずっと凄惨だった頃、部落の子たちは日常的に差別され、極度の貧困で進学できず、進学できても就職できず、部落外の相手と結婚できず、どうあがいても貧困の連鎖から抜け出すことができなかった。その境遇に絶望し、長らく耐えたけれど限界に達し、自殺を選ぶより他なかった、という子は少なくない。

 あるいは、いじめを苦にして自殺した無数の子どもたち。いじめられた彼らが悪いのか。彼らは対処を怠って、安易に自殺を選んでしまったのか。彼らは助けを得られず、一人で耐え、しかし結局、自殺せざるを得ないところまで追い詰められてしまったのではないだろうか。

 アフリカの無数の貧困地帯では、村人たちが日常的に売春をしている。しなければその日に食べるものがないからだ。そして精神を病んだり、HIVに感染したりして、虚しく命を散らしてしまう。それは彼らの自己責任なのか。そもそも社会構造に問題があるのではないのだろうか。


 そういう一つ一つのケース、一人一人の人生が掛かった問題を、全て一括りにして「自殺は罪」と言い切ってしまうクリスチャンの言葉はあまりにも軽い。軽すぎてこの現実世界のリアルな重さに耐えられない。分かりやすく言えば、この世界に対する存在意義がない。であるなら教会もクリスチャンもやめた方がいい。


「神の愛は本物だ。この愛を人々に届けたい」と綺麗なことを願うのであれば、差別の最も酷いところ、いじめの最も暗いところ、最も助けを必要とするところを探し出して、そこへ届けるべき。でなければ嘘になる。教会の中で現実世界を見ず、「神様わたしを導いて下さい」とか「何が御心ですか」とか、自分のことばかり祈ってる場合ではない。


「自殺は罪」と言うことは、自殺者の遺族や自殺企図・未遂者に対するセカンド・レイプだ。そしてあなたの周囲に(気づかないだけで)そういう人たちがいるかもしれない。彼らを不用意に傷つけるあなたに、罪はないのだろうか。

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