狭いところと広いところ / 聖書の言葉の使い方

2020年7月23日木曜日

教会生活あれこれ

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 キリスト教に関係あってもなくても、誰かに相談する時は「○○しないとダメ」と選択肢を狭めてくる助言でなく、逆に選択肢を増やしてくれる助言に耳を傾けた方がいいと思う。

 あるいは結果的に焦りや恐怖を駆り立ててくる助言でなく、ゆとりや安心感を与えてくれる助言に耳を傾けた方がいいと思う。


 ポイントは「誰かが考えた答えに従う」か、「迷いながらも自分で決める」か。


 選択肢を狭めてくる助言、つまり「自分の代わりに選択してくれる助言」に従えば、その時はラク。迷ったり悩んだりが最小限で済むから。けれど長い目で見ると、主体性や考える力が削がれてしまう。また自分の選択に自分で責任を負う機会が失われてしまう(それは大きな損失)。

 それにいつもたった一つの解決、たった一つの正解を求める方法でしか、物事に対処できなくなってしまう。実際にはただ一つの正解などなく、いろいろな選択や結果があり、どれも一長一短なのに。


 結果的に、余裕のない生き方になってしまう。

 人はあれこれ悩んだり迷ったりしながら、できるだけ沢山の選択肢を作って、自信があってもなくても何かを選んで、まあこんなもんかなと思ったり、別の選択をすべきだったかなと後悔したり、そうやって試行錯誤しながら生きていく方がいいと思う。


☆ ☆ ☆


 キリスト教的には、問題に対して「神に祈って委ねる(解決されるのを待つ)」とか「聖句から慰めを得る」とかの方法がある。それ自体は精神衛生を保つのに良いかもしれない。


 しかしそれ「しか」知らないと、本来解決できるはずの問題に延々と苦しむことになる。たとえばDVに苦しむ配偶者が教義的に離婚を禁止され、「祈って委ねましょう」で済ませられたら、いつまで経っても問題は解決しない。文字通り死ぬまで苦しむことになりかねない。


 信仰や教義に縛られない助言は、キリスト教徒にとっても大切だ。


 ただ自分でちゃんと考えられない、適切に判断できないくらい打ちひしがれている人に、沢山の選択肢を提示しても逆効果。考えたり選んだりする余裕がないから。

 そういう場合は、安全に休ませられる場所にとりあえず避難させるなど、臨機応変な対応が求められると思う。詩篇23篇的に言えば「憩いの水のほとりに誘う」ような。

 聖書の言葉は本来、そういうふうに使うべき。人を狭いところへ追い詰めるためでなく、人を広いところへ導いて、ゆとりと憩いを与えるために使うべき。

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