ブレない信仰生活

2020年7月20日月曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L

 キリスト教の信者になることは、その教えからくる魂の平穏を得ることと共に、その結果として、神と人とに(主に教会で)仕えるようになることを意味すると思う。


魂の安らぎを得る

感謝したい、役に立ちたい、と思う

教会で奉仕したり、献金したりする


 というような流れだ。


 ただこの奉仕や献金の「量」が問題で、過剰だと疲れ果ててしまう。結果的に平穏を失ってしまう。本末転倒だ。だからそのバランスは時々見直さなければならない。忙しすぎないか、疲れすぎていないか、自分の魂に安らぎはあるか、と。


 入信当初は「救いの喜び」とか、教会コミュニティに属することの満足感とかで頑張ることができる。けれど、誰だって次第に疲れていく。その時に「休みたいけど休めない」状況だと、苦痛ばかりが大きくなって、何のためにやっているのか分からなくなってしまう。人手が少ない小規模な教会で起こりがちな事態だ。


 誰かの必要を満たす前に、自分自身の必要が満たされていないと、奉仕は続かない。


「誰かの役に立つことで自分自身も満たされる(=受けるより与える方が幸いである)」という話も聞くけれど、それは「誰かの役に立っている自分でないと価値があると思えない」という自己肯定感の低さや、「お世話してあげてる自分すごい」というプライドに起因していることが多く、あまり健全でない。

 動機の吟味も必要だ。


「キリストを信じることからくる魂の平安」の観点で言えば、何の奉仕もしていない、何の役にも立っていない状態でも焦ったり負い目を感じたりしないでいられるかどうかが、一つの目安になると思う。教会は人間の組織なのだから、どうしても「目立つ人」と「目立たない人」、「いろいろできる人」と「ほとんど何もできない人」とに分かれる。そこが気になりすぎると、辛くなる。


「人には人の役割がある。自分には自分の役割がある」とフラットに考えて満足できるようになるのは、キリスト教徒としての(あるいは人間としての)成長の一つだと思う。でもその心境に至るのは口で言うほど簡単でなく、特に若い人ほど悩んでしまう。ただ悩むことは、「それだけ伸び代が残されている」と肯定的に言い換えることができるかもしれない。


「自分はこれこれの働きができる(orしてきた)」とやたら自慢するのでなく、「自分なんて何もできない」とやたら自己卑下するのでもなく、「これが自分の信仰生活だ」というブレない自分なりの定点を見つけることができたら、信仰者は強いと思う。

QooQ