「実を見て判断しなさい」と聖書は言う

2020年6月8日月曜日

教会生活あれこれ

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 自分の教会は酒タバコ(&その他いろいろ)禁止で、自分はどちらも興味がなかったので特別意識しなかったけれど、我慢していた人はいた。実は何人かの信徒がタバコを吸ってるのを、何度か偶然目撃したことがある。しかし罪だ何だと騒ぐ気になれず、「ここまで人の行動を規制するのが本当に良いことなのか」と逆に疑問に思ったもの。

 そもそもの話、酒タバコ禁止の根拠を聖書に求めるのは無理があると思う。タバコなんて一言も言及されてないし。
 酒タバコ禁止はあくまで、教会の伝統と慣習の中で生まれたものと考えるべき。

 もっともそれらは積極的に推奨されるものでもないと思う。依存性や健康被害の問題があるから。ただそういう点を問題視するなら、精神を病むほど疲弊させられる牧師家庭の悲劇や、(教会での)長時間奉仕による健康被害なども同じように問題視すべき。教会活動のせいで健康を害した人は沢山いる。

 もちろんその宗教を信仰する以上、その教義やルールを守るのも大切だ。けれど人の行動を過度に規制したり、あるいは強制したりして自由を奪うのは宗教としてどうなのか、とも思う。特にキリスト教は人の「重荷を下ろし」、「憩いの水のほとりに伴う」もののはず。人をガチガチに縛って動けなくするものではなくて。

 その教会を離れたあと、酒やタバコを全く禁止しない教会が沢山あると知って、わたしはずいぶん驚いた。あの禁止はいったい何だったのだろう。
 数々の禁制をつくり、それを守れるかどうかで敬虔さや信仰深さを測る(試す?)のだとしたら、「恵みによって救われる」の逆で、結局は「自分で頑張らなければ救われない」ことになる。

 カルト化教会にしばらく通った知人は、連日の忙しさやリーダーからの様々な要求に疲れ果てて、「これが本当に恵みなのか」と疑問に思ったのが、離れるキッカケだったという。
「神のため」「教勢のため」「人々のため」という大義名分に踊らされる真面目な人は多い。「自分のため」を第一に考えてほしい。

「自分の十字架を負いなさい」とか「霊に燃え主に仕えよ」とかの聖書箇所を使って教会への隷属、無私の奉仕を要求する教会があるけれど、前述の通り「人の重荷を取り除いて休ませる」という趣旨の聖書箇所もある。聖書はバランスよく読むべき。
 そして(結果的に)自分自身を健全に保てないような聖書の読み方をしているとしたら、やはりどこか間違っていると思う。

 聖書は「実(結果)を見て判断しなさい」という趣旨のことも言っている。
 その信仰の在り方の結果、人は生かされているのか、あるいは殺されているのか。そこを見るべきという意味だと思う。

 こういうことを書くと「それは神中心主義でなく人間中心主義だ」という批判がくることがある。けれど「神中心主義」を掲げる人も結局は「このやり方こそ神中心主義だ」という自分の考えに執着するタイプの人間中心主義でしかない。むしろそこに気づかないだけ、よりタチが悪い。

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