聖書解釈の問題? 人権の問題?

2020年6月15日月曜日

性的マイノリティ

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 キリスト教リベラルと言われる立場の大きな柱が「人権を守ること」であるなら、自分はリベラルであり続けたい。でもそもそもの話、「人権を守らないキリスト教」は成立するのか? 神を愛しますと言いつつ人を愛さないキリスト教信仰って、相当矛盾してるように思う。

 そこに「愛は時として厳しいものだ」という理屈を付けて人を責めたり、何かを強要したりして、「これも愛だ」と主張する教会の人たちがいる。けれどそれは多くの場合、マジョリティに属さない人たちや、マジョリティに従えない人たちを差別し迫害するための道具となっている。強者の理論を「神の愛」や「信仰」で覆い隠してるだけ。

 このあたりを「コンサバvsリベラル」の対立で括ってしまうと、問題の本質が見えなくなってしまう。これは単に聖書解釈/理解の違いでなく、ちゃんと人権問題として認識しているかどうか、の境目だから。たとえば「同性愛は罪だ」と言うのは、聖書解釈の表明である以前に、「自分は積極的にセクマイを差別します」という表明に他ならない。

「聖書がそう言っているのだから仕方がない(自分の意見ではない)」といくら言い訳したところで、その表明自体が自分の知らないところで同性愛指向の人々を差別し、追い出し、傷つけ、もしかしたら殺しているかもしれない。意図にかかわらず、そういう結果に至ることがある(現実にそうなっている)。だから聖書解釈の問題の以前に、これは深刻な人権問題だと知ってほしい。あなたの意図がいくら「純粋」だろうと関係ない。起きている結果を見るべき。

 ちょうどネットの誹謗中傷が問題となっている。「同性愛は罪だ」という主張も全く同じで、自分が知らないだけで、どこかの誰かを切りつけ、引き裂き、命を奪っている、と自覚しなければならない。それができないなら、「人を愛さないキリスト教」というわけのわからないものを信仰している事になる。

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