敬虔さ、信仰深さは測れない

2020年6月21日日曜日

キリスト教信仰

t f B! P L

「そんなのでは不信仰だ」
「それでは神に喜ばれない」
「敬虔に生きなさい」
「不信仰でなく信仰を選びなさい」

 そんな言葉で信仰か不信仰か、敬虔か不敬虔かジャッジされることがある。しかし「敬虔さ」や「信仰深さ」は自分で決めるものでなく、まして他人が評価するものでもないと思っている。人の心の中は見えないから。そして自分の心の中だってよくわからないから。

 それに信仰/不信仰の基準は人によって、あるいは教派によっても異なる。それぞれ違う物差しで測り合っても意味がない。

 信仰/不信仰の話に付随して「全て神の導きの中にある」と言うのも違和感がある。全部が「導き」の中にあるのなら、我々の悩みまくった挙句の苦渋の選択も「そうなる定めだった」みたいに簡単に言われかねないから。知らないところで台本通りに動かされていた、みたいな。であるなら我々の人生の意味とは、苦労して生きる意味とは何か(「あれは結果的に導きだったのでは」と振り返るなら分かるけれど)。

 また「敬虔さ」や「信仰深さ」という言葉は、信仰心の高低やレベルや階級や序列といったものをイメージさせる。けれど実際にはそんなものはないと思う。信仰歴50年の教職者がもれなく信仰深く、受洗して1年の信徒がもれなく信仰が浅いのではない。単にキリスト教関連の知識や資格や経験があるかどうかだけ。たとえば信徒でない人の心からの善行は、神の御心に100%かなっている。

 だから信仰心を量的に評価しようとしたり、「未信者」や「異教徒」だからと軽視したりするのは、キリスト教と全然関係ない。むしろ反していると言っていいかもしれない。

QooQ