コロナ禍のようなどうにも回避できない現実的な困難に直面して、「アマビエ」のような超自然的な存在にすがりたくなるところに、宗教心の本質がある気がする。
万事がうまくいっていて優雅に暮らしてる人はあまり宗教に傾倒しない。「宗教は弱い人がすがるもの」という昔ながらの言説とも繋がる。
いわゆるリア充だった友人はわたしの教会通いを何となくバカにしていた。けれど彼が二進も三進も行かない苦境に追い込まれた時、自ら「キリスト教の話を教えてくれ」と頼んできた。伝道のチャンスと言えばそうだった。けれど人の苦境を利用するようで、どうにも気が進まなかったのを覚えている。
しかしそんな彼が苦境を脱して元のリア充生活に戻ると、案の定、キリスト教に一切関心を示さなくなった。あの時ガッツリ伝道して教会に引き込んでいたら、彼はどうなっていただろう。しなくて良かったと今でも思っている。
悩んで弱っている人の心理に付け込んで伝道し、教会に引き入れて、なんとなく離れられない状況にするのは、フェアでない気がする。ホームレスの人向けの炊き出しで、まず聖書の話をして、最後まで聞かないとご飯がもらえない仕組みにしているのに似ている。
ただ教会と縁もゆかりもない人が教会の門を叩くキッカケは、やはり何らかの悩みや葛藤を抱えてのことが多いと思う。そうでない人も来るだろうけれど。また福音を聞いて信じやすいのも、弱ってる時の気がする。「伝道」とは何だろう。
伝道は人の心の扉をノックすることかもしれない。けれど弱っている時は、ノック程度で扉が壊れてしまうかもしれない。それはジェントルな行為と言えるのか。
コロナ禍にあってキリスト教に興味を持つ人にまず必要なのは、神や信仰である前に、安心感なのかもしれない。
「資本論」を書いたカール・マルクスが「ユダヤ人問題によせて」という本のなかで「宗教は民衆のアヘン」という有名な言葉を残しています。
返信削除ここでいう「アヘン」とは、幻覚剤や鎮痛剤という意味でのアヘンです。現実が苦しみや痛みや悲しみで耐え難いとき、人がアヘンに依存して現実逃避をするように、キリスト教は民衆が現実逃避をするためのアヘンだというわけです。
現実生活での苦しみ、悲しみ、痛みが解決されるならば、人はアヘンへの依存から脱するようにキリスト教を必要としなくなる。だから、キリスト教や天国などの「あの世」で人を現実逃避させるのではなく、「この世」の現実の悲惨を解決すべく政治的、経済的な改革に力を注ぐべきだ。貧困や差別が存在しない共産社会が実現したならば、誰も神やキリスト、天国について語らなくなるだろう、というわけです。
現実はたしかにマルクスの言うとうりになりました。共産主義的なユートピアでなくても、安全が保障され、経済が豊かになるにつれて人々は教会に行かなくなり、キリスト教に関心をもたなくなりました。まさに、リアルが充実することと宗教の世俗化は比例して進んだのです。
しかし、キリスト教を必要としなくなったのは事実ですが、アヘンから人が解放されたわけではありませんでした。歴史を見れば、キリスト教の代わりにマルクス主義の哲学が新しい民衆のアヘンとして「消費」されていたことがわかります。
富や名声のすべてを手にしたように見えるスポーツ選手や芸能人たちですら薬物への依存とは無縁ではありません。「リア充」に見える人はたくさんいますが、彼らが本当にリア充かどうかは誰も証明できません。
仕事にやりがいを感じて日々のすべてを仕事に費やす人でも、彼の仕事への依存が、何かをごまかしたり、何かから逃避したりするために必要なアヘンではないと証明することは誰にもできません。
映画、漫画、アニメ、ゲーム、小説、思想などの文化だって、現代の「民衆のアヘン」として消費されていることは言うまでもありません。
映画や漫画やアニメの世界観にどっぷり「ハマる」ことは、「不満で、不全で、つまらない現実」に対して「ここではないどこかへ…」連れだしてくれるアヘンの依存と変わりがありません。
情熱的な海外ドラマを見るのを楽しみに、現実の希薄な人間関係を生きる「世俗的」な現代人は、天国の安息を思いながら人生の苦役を生きるクリスチャンと何が違うのでしょう。
もちろん、それらの文化作品のなかには優れたものがあって、「民衆のアヘン」として消費されるのを拒むものがあります。現実から目をそらせておきながら、前よりも現実がよく見えるようになって現実へ送り返すような作品です。アヘンとして現実から逃避させるがままにするのではなく、もっと強く現実と対峙できるように世界観や人生観を変えてしまうような作品です。そのような作品はたしかに存在します。
キリスト教も、その消費の仕方は千差万別で、アヘンとして消費されることもあるでしょう。しかし、イエスは「私に従う人は私と同じ苦い杯を飲み、十字架を背負うことになるだろう」と言いました。イエスは人を癒すときも「見よ、あなたはよくなった。自分の足で立ち上がって歩きなさい。」と言いました。聖書に準ずれば、キリスト教は人から痛みを忘れさせたり、「あの世」へ逃避させたりするものではなく、むしろ十字架の痛みを負うべく現実と対峙させるものでありました。「神の国」にいる人は、神の召命に従うべく、「この世」の現実のすべてをリアリスティックに見渡して十字架を負うべく生きるよう呼びかけられている。これまでもそのようなクリスチャンはいたし、これからも呼び起こされてくるでしょう。私にとってもまた、キリスト教はそのような徹底したリアリズムのひとつです。
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