コロナ禍にキリスト教に興味を持つ人は

2020年5月25日月曜日

伝道

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 コロナ禍のようなどうにも回避できない現実的な困難に直面して、「アマビエ」のような超自然的な存在にすがりたくなるところに、宗教心の本質がある気がする。
 万事がうまくいっていて優雅に暮らしてる人はあまり宗教に傾倒しない。「宗教は弱い人がすがるもの」という昔ながらの言説とも繋がる。

 いわゆるリア充だった友人はわたしの教会通いを何となくバカにしていた。けれど彼が二進も三進も行かない苦境に追い込まれた時、自ら「キリスト教の話を教えてくれ」と頼んできた。伝道のチャンスと言えばそうだった。けれど人の苦境を利用するようで、どうにも気が進まなかったのを覚えている。

 しかしそんな彼が苦境を脱して元のリア充生活に戻ると、案の定、キリスト教に一切関心を示さなくなった。あの時ガッツリ伝道して教会に引き込んでいたら、彼はどうなっていただろう。しなくて良かったと今でも思っている。

 悩んで弱っている人の心理に付け込んで伝道し、教会に引き入れて、なんとなく離れられない状況にするのは、フェアでない気がする。ホームレスの人向けの炊き出しで、まず聖書の話をして、最後まで聞かないとご飯がもらえない仕組みにしているのに似ている。

 ただ教会と縁もゆかりもない人が教会の門を叩くキッカケは、やはり何らかの悩みや葛藤を抱えてのことが多いと思う。そうでない人も来るだろうけれど。また福音を聞いて信じやすいのも、弱ってる時の気がする。「伝道」とは何だろう。

 伝道は人の心の扉をノックすることかもしれない。けれど弱っている時は、ノック程度で扉が壊れてしまうかもしれない。それはジェントルな行為と言えるのか。

 コロナ禍にあってキリスト教に興味を持つ人にまず必要なのは、神や信仰である前に、安心感なのかもしれない。

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