聖書の「日々新しく作り変えられる」を文字通り信じて、「クリスチャンは信仰生活を送ることでより良い人間(きよい人間?)になっていく」と考える人は、人類の歴史やキリスト教の歴史をちょっと振り返ってみた方がいいと思う。
むしろ教会が大きくなり、指導者に権力が集中し、教会政治の透明性が失われるにつれ、癒着や腐敗や堕落が増えて、戦争やら内部抗争やらを始めるようになったのが歴史的な事実だと思う。日本の教会は現在そこまでの力を持ち得ないから想像できないかもしれないけれど、それは今でも起こり得ること。
「宗教としてのキリスト教は腐敗するでしょう。でも自分の信仰は宗教でなく主との個人的関係です」と主張したい人もいると思う。しかし人が集まって組織の形となる限り、権力構造と腐敗性からは逃れられない。またそこには「自分(たち)は大丈夫。堕落などしない」という正常性バイアスも絡んでいる。
あるいは「全能の神様がついているのだから大丈夫」と考える人もいると思うけれど、であるなら神様は、なぜキリスト教世界の何世紀にも渡る暴力の数々を見逃してこられたのだろうか。あるいは妻に暴力を振い続けるクリスチャン夫をなぜ見逃してこられたのだろうか。
「自分の信仰は(キリスト教は)宗教でなく主との個人的関係です」という主張も飽きるほど聞いてきたけれど、「神との個人的関係」とはつまり宗教のこと。「自分(たち)は特別だ」と思いたいからそういう発想になる、と気づいた方がいい。
初めの話に戻ろう。
「人はクリスチャンになって信仰生活を送ればより良い人間になれる」は正しいのか。
教会というコミュニティに属し、そこで教えられ、継続的にケアされることで、良い生活習慣が生まれる、というのは事実だと思う。そしてその良い生活習慣を続けることで、以前に比べて「自分は(相対的に)良い状態になった」と感じることはあると思う。
しかしそれは人間が本質的に変えられたとか、「霊的に」作り変えられたとか、変身したとか、そういう不可逆的なものではないとわたしは思う。習慣が変われば生活も変わる。以前の生活に戻ることもある。性格と生活は響きは近いけれど、根本的には違うもの。「神の個人への介入」を強調しすぎると、そのあたりを見誤ってしまう。
作り変えられるなんて私は信じません。
返信削除それだといつまでも走り続けて、弟子訓練の考え方で疲れます。自分が神になろうとする罠にもハマりそうです。教会が学校化してしまい、ずるい牧師のいいかもになります。
恵のみ、信仰のみと主張したルターの理解を信じています。
多くのクリスチャンが誤解していると思うのは、人が神に近づくのはプラスによってではなく、むしろマイナスによってだということです。
返信削除プラスによって神に近づくこと、それは教会に通い、礼拝を行い、聖書をたくさん読み、たくさん祈り、慈善活動をたくさんすること、すなわち「敬虔な生活」の積み重ねによる「功績」によって神に近づくのだ、ということ。
しかし、聖書が訴えるのは、人がどんな敬虔で聖なる生活によって神に近づこうとしても、それは人間の営みであるかぎり神ではなく偶像であり、神の国ではなくこの世であり、自分たちの力で神になろうとするバベルの塔にすぎないのだ、ということです。
では何によって人は神に近づくのでしょうか? それはマイナスによって。すなわち、私たちが壁にぶつかって挫折するとき、神によって砕かれて無になるとき、そのとき空っぽになった私たちにはじめてキリストにおける神の国が来る。
私たち人間の実情は、まず「この実を食え。あなたは神のようになるだろう」という原初からの悪魔の誘惑があります。にもかかわらず、私たちは人間であって、天まで掴まんとする高慢にもかかわらず神にはなれないという厳とした事実がある。
こうして、私たちは神になろうとして、神を得ようとして偶像を建て、天を掴まんとしてバベルの塔を建てるのですが、それは必ず挫折し、砕かれるべく定められている。神の国は、それらの瓦礫なかから建てられ、空っぽになり無となった私たちにキリストが来て、キリストが私たちを生きる。神の国はこのように来る。パウロが「生きているのは、私ではない。私によってキリストが生きている」と言うとうりです。
神の国が来る前に「悔い改めて福音を信ぜよ」という「否定」の宣告が先に来る。私たちが私たちのままで、この世がこの世のままでは神の国は来ることができない。神の国が来ても私たちは十字架にはりつける。そして、私たちが砕かれて無になるとき、神の国は罪の許しとして、慰めとして、私たちを復活させるものとして、喜ばしい報せとして復活し、私たちを生きる。神の国はこのように来る。
「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。」詩篇51篇
神に義とされるのは、「私は断食もしている。献金もしている。戒律を守っている…」と祈るパリサイ人ではなく、「罪人の私をお許しください…」と祈る取税人です。
神の国は、神によって高慢を砕かれて、幼子のようにされた人々のもの。人間である限り、誰しも全能ではなく限界をもっている。誰しも全てを望みつつも砕かれながら生きている。そのゆえに、神の国は全ての人のもの。善人にも悪人にも乾いた大地に雨の降るごとく、神の国が「恵み」であるというのは、このような意味です。
だから、神もキリストも教会も全ては砕かれた人々のもの。どんな敬虔な意図であれ、偶像を建て、バベルの塔を建てつつ砕かれずにいる人々のものではありません。神がキリストにおいて全ての砕かれた人々と共にしたように、神によって砕かれて、キリストにおいて復活させられた人として、クリスチャンはすべての砕かれた人々と共にしなければならない。
政治的、経済的、宗教的指導者に神を求めたのに、彼らが自分と同じくエゴイスティックな人間であり、偶像にすぎないことを明らかにされて希望が砕かれた人々。結婚相手や恋人に神や女神を求めたのに、彼らが自分と同じくエゴイスティックな人間であり、偶像にすぎないことを明らかにされて希望が砕かれた人々。神の国は彼らのもの。クリスチャンは、彼らと共にするべく召されている。「幸い。貧しい人、今泣く人。神の国は彼らのもの。」と聖書にあるとうりです。