クリスチャンは信仰生活を送ることで「作り変えられる」の?

2020年5月11日月曜日

教会生活あれこれ

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 聖書の「日々新しく作り変えられる」を文字通り信じて、「クリスチャンは信仰生活を送ることでより良い人間(きよい人間?)になっていく」と考える人は、人類の歴史やキリスト教の歴史をちょっと振り返ってみた方がいいと思う。

 むしろ教会が大きくなり、指導者に権力が集中し、教会政治の透明性が失われるにつれ、癒着や腐敗や堕落が増えて、戦争やら内部抗争やらを始めるようになったのが歴史的な事実だと思う。日本の教会は現在そこまでの力を持ち得ないから想像できないかもしれないけれど、それは今でも起こり得ること。

「宗教としてのキリスト教は腐敗するでしょう。でも自分の信仰は宗教でなく主との個人的関係です」と主張したい人もいると思う。しかし人が集まって組織の形となる限り、権力構造と腐敗性からは逃れられない。またそこには「自分(たち)は大丈夫。堕落などしない」という正常性バイアスも絡んでいる。

 あるいは「全能の神様がついているのだから大丈夫」と考える人もいると思うけれど、であるなら神様は、なぜキリスト教世界の何世紀にも渡る暴力の数々を見逃してこられたのだろうか。あるいは妻に暴力を振い続けるクリスチャン夫をなぜ見逃してこられたのだろうか。

「自分の信仰は(キリスト教は)宗教でなく主との個人的関係です」という主張も飽きるほど聞いてきたけれど、「神との個人的関係」とはつまり宗教のこと。「自分(たち)は特別だ」と思いたいからそういう発想になる、と気づいた方がいい。

 初めの話に戻ろう。
「人はクリスチャンになって信仰生活を送ればより良い人間になれる」は正しいのか。

 教会というコミュニティに属し、そこで教えられ、継続的にケアされることで、良い生活習慣が生まれる、というのは事実だと思う。そしてその良い生活習慣を続けることで、以前に比べて「自分は(相対的に)良い状態になった」と感じることはあると思う。

 しかしそれは人間が本質的に変えられたとか、「霊的に」作り変えられたとか、変身したとか、そういう不可逆的なものではないとわたしは思う。習慣が変われば生活も変わる。以前の生活に戻ることもある。性格と生活は響きは近いけれど、根本的には違うもの。「神の個人への介入」を強調しすぎると、そのあたりを見誤ってしまう。

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