キリスト教界の一部で密かに繰り広げられているのが、創造論vs進化論の戦い。
いつ頃からか創造論はID論(インテリジェント・デザイン論)と呼ばれるようになっているけれど、中身は同じで、生物は進化するのでなく、全て知的創造者(=神)によってデザインされたのだ、という説。
なので今はID論vs進化論、か。
そのID論者が進化論への反駁によく使うのが、エントロピーの法則。
「物質はより無秩序な状態へ変化していくのだから、より複雑かつ精巧な生命体へ進化するという進化論は矛盾している」みたいな感じ。
ただその言い方は、エントロピーの法則を正しく理解しているとは言えない。詳しくは自分で調べてほしいけれど、エントロピーが増大するのは閉鎖系の中での話であって、生命体にそのまま当てはめられる話ではない。
エントロピーの法則を少しかじっただけで全部理解したつもりになっているから、簡単にそう言ってしまうのだと思う。
またID論を支持する教会の人たちの多くは、進化論のおかしさとかID論の正当性とか、ちゃんと説明できないことが多い。リーダーとか偉い人たちとかの話を鵜呑みにして、「とにかく進化論は間違っている。生命は神様が創造したんだから」みたいな感じで納得しているから(自分もそうだった)。
ID論はなんとなく科学的に見せているけれど、わからないところは何でも「神のみぞ知る」で片付けることができてチートだと思う。それに進化論と対立することでフィフティ・フィフティの印象を与えてるとこにも注意した方がいい。
かと言って進化論が絶対正しいのではない。それはあくまで学説に過ぎない。研究中の説だから、「信じる/信じない」という話ではそもそもない。
その点、ID論は信仰と密接に繋がっている。支持者は絶対に正しいと信じている(でないと自分の信仰を否定することになってしまう)。
要は「信仰」であって、「科学」でない。なのに科学のフリして進化論と対立している、という変な構図がある。
ID論推しのクリスチャンがよく言うのが「人間がたまたま猿から進化したなら我々の存在は無意味だ。しかし本当は神様が一人一人に意味と価値を持って下さっている」というものだ。けれど無意味に殺されていく子や、理不尽な目にあって死んでいく子が後を絶たない現状に対して、どれほどの説得力があるだろう。
それに「猿から進化したなら我々の存在は無意味だ」というのは、猿に対して失礼だと思う。猿にだってちゃんと生きる価値があり、個性があり、温泉を楽しんだり芸を披露したり、サル社会の中でいろいろ葛藤したりしているのだから。全然無意味ではない。
猿に謝ってくれ。
もちろんID論を信じることで、「神が自分を作って下さった。だから自分には生きる意味がある」とポジティブに思えるのは良いことだ。それがその人の「救い」になるなら、大いに結構だと思う。
ただそれが科学的に証明された何かではなく、信仰に基づいたものであり、他人に押し付ける種類のものでない、ということは忘れないでほしい。
先祖が猿なんて嫌よね!と福音派原理主義の教会で言われ、違和感を持ちました、
返信削除好き嫌いでなく、史実はどうなのかだろうと。
感情で行動する弟子訓練マンセー教会でした。
「・・・というのは、猿に対して失礼だと思う。猿にだってちゃんと生きる価値があり、個性があり、温泉を楽しんだり芸を披露したり、サル社会の中でいろいろ葛藤したりしているのだから。全然無意味ではない。猿に謝ってくれ。」
返信削除これ最高に受けました!!だけど本質を突いていると思います。
この手の話って、信仰を科学やその他人間的な方法で根拠づけようとするが故に起きる間違いなのだと思います。
返信削除信仰のことを科学でもその他のことでもによって基礎付けようとするのは信仰というある意味絶対的な真理のようなことを所詮仮説であるもので基礎付けようとするアンバランスなことになると。
私は進化論を支持しますが、だからといって聖書やキリスト教の信仰が無意味になるとは思いません。
返信削除「猿から進化」といっても、山にいる日本猿が数十万年かければ人間になるというわけではありません。祖先は共通ですが、チンパンジーはチンパンジー、ゴリラはゴリラ、原人は原人です。私たちが私たちであるのは、他とは異なる「ある種」からであって、チンパンジーやゴリラと一緒くたにはできません。進化論を支持したとしても人間性を否定することにはなりません。
「空の鳥を見よ。蒔くことも、刈ることも、蔵にいれることもしない…」とイエスは言いました。動物たちはその日、その時に必用なものしか、狩ったり採取したりしません。ところが人間は、飢えたり、凍えたりして困窮している同胞を横目で見ながら、隣人や同胞が必用としているものを独占し、買い占め、転売して高値で売るような醜く浅ましい存在です。
いったいどっちが野蛮なのでしょうか?動物たちに比べても人間のほうがはるかに貪欲でエゴイスティックな存在です。人間が動物たちのように、本当に必用なもので満足することができたなら、この世界に貧困の問題は存在しません。
このような人間が猿や動物よりも優れているなんて、まったく傲慢で、お猿さんたちに失礼ですね。
しかし、時に人間は動物たちとは違い他者のために生き、他者のために犠牲になれるような存在です。愛(アガペ)に憧れ、自分に愛 (アガペ)が足りなかったことを悔やみ、後悔できる存在です。一言で言えば、キリストを知り、キリストに従うことができる存在です。この点において、私たちは動物とは異なります。人間は自分の肉体が全てではなく、肉体やこの世を越えたところから、自分の体を用いることができる。人間だけが神をもち、神の国をもつ。
私たちの肉体の由来がどうであれ、このような事実から、私たちは人間への神の息吹(プネウマ)を信じることができるのではないでしょうか。
はじめまして。
返信削除わかりやすい文章で、読んでいて納得しました。
同じ土俵で論じる事がそもそもおかしな事ですね。
知人がID論に傾倒してしまい、悩んでいたところでした。