「元気になったら教会に行きます」
という連絡が、教会にくることがある。
何らかの調子が悪いから教会に行けない、ということだろう。もちろん調子が悪い時は家でゆっくり休んだ方がいい。
ただ何となく、そこに「いろいろな意味で元気でないと教会に行けない」というニュアンスがある気がする。
心身ともに健康で、特別大きな問題もなく、後ろ指さされるような境遇でもないのが「教会に行けるコンディション」に事実上なっていることが、現在の(主に日本のプロテスタントの)キリスト教会が抱えるジレンマの一つだと思う。
教会を必要としているけれど行けない、みたいな人がいるのではないか。
否定的な意味でなく、現状として、日本のプロテスタントは活会員50名以下の教会がほとんどで、既存の集会活動等を維持するのに精一杯で、特別なニーズに対応する余力はないように思う。たまたま何かの専門家がいれば、その分野だけは別かもしれないけれど。
理想はあってもマンパワーが足りない、という現状。
たとえば身体障害や精神障害で教会に行くのも困難、礼拝中にジッとしているのも困難、意思疎通も困難、みたいな人が「礼拝に出席したい」と申し出たら、教会はどうするか。何とかして対応したいと思うかもしれないけれど、現実的に無理だと思う。そのあたりを踏まえると「教会の使命とは何なのか」を考えるきっかけになる。
もし「教会の使命」が伝統的な1時間半程度の礼拝を捧げることや、祈祷会を開くことであるなら、そこに問題なく参加できる人だけが「対象」となる。
そうでなく痛んだ人、疎外された人、差別された人たちに手を差し伸べることが使命であるなら、教会はどうしてもその手の「専門集団」にならねばならない。
ただこれらの礼拝行為と奉仕活動は相反するものでなく、本来両立できるはずだけど、いかんせん人が足りない、場所が足りない、物が足りない、意識が足りない、というのが現状で、結果的に「教会に行けるコンディション」ができてしまうのだと思う。
弱っていると、教会に行けない……
やはり礼拝主体の教会が、個人の悩みに対応するのは限度がある。だから教会とは別枠で、クリスチャンどうしが(教派を越えて)集えるような取り組みがあったらいいと思う。イスラム教界隈も「ヤングムスリムの集い」をしていると聞く。そういうのは素直にいいなと思う。
多くが50人未満の教会で、献金の重圧に疲れている。牧師は説教が大変だと言って働かない。信徒財布ばかりあてにする。
返信削除私には昔からこれが疑問であった。信徒は奉仕とは別に職業をもち働いている。大変なのは同じ。なのに、深夜番組やインターネットして、昼頃起きてくる牧師を見ると腹が立つ。自分も働け!と言いたい。牧師館に光熱費、車代に電話代、保険代を出してもらっていて、それだけで十分だろ。
ぶっちゃけ牧師の側もどうしていいかわからない
返信削除手づまりなんだと思う
なにせ日本に限って言えば猛烈に反対や迫害をしてくるわけでもなく
「居たかったらいてもいいよ、でもあなたの指図は受けないよ」という独特の間合いがあるから
それがいい悪いじゃなくてそういう独特の風土があるのは現実
それを認める勇気、そしてそれにどう対応していったらいいかわからない自らの無知無力を認めず
「生ぬるいクリスチャン」という語を安易に発信する人の多いこと
(多いといっても超少数派の中の、だけれど笑)
このまま干上がっていけばいいのだ
「未熟なものは理想のために高貴な死を選ぶが
思慮のあるものは理想のために敢えて矮小な生を選ぶ」
というじゃないですか
その「生」とは、文字通り理想とかけ離れたような泥水に生木を漬けるようなもので
「清潔」な教会に慣れ切ってしまうともうそこでしか生きられなくなってしまう
それが「きよい」と言うことだというなら
もうそこでお話は終わりである