アーミッシュ事件に見る教会の闇

2020年1月27日月曜日

時事問題

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 アーミッシュの事件は「キリスト教のごく一部の問題」でなく、閉鎖性などの環境が整えば、どの教派でも教会でも起こり得ると思う。実際カトリックでもプロテスタント各派でも起こってきた。「新生」を強調する教会でも。

 キリスト教的な「きよさ」はあくまで理想であって、人間が本来持つ暴力性を変えることはできないと認めるべきだと思う。

 信仰に進んだ人たち(特に牧師などの教職者たち)は、「きよめ」を体験しているから人間的な欲望から解放されている、と一部の教会群は教える。「きよい」のだから悪いことをするはずがない、と。

 そうした幻想の陰で、特に多くの女性信徒たち(子ども含む)が性被害に晒され、隠蔽され、泣き寝入りを余儀なくされてきた。今回のアーミッシュのように表沙汰になったのは、氷山の一角と考えるべき。教会の奥深く、光り輝く聖域のように考えられているところにとてつもない闇が隠れていても、外からは見えない。

「ボーンアゲイン」とか「新生体験」とかの(一部の教会群の)教えも、その闇を助長していると思う。新しくきよく生まれ変わったのだから、悪いことなど考えもしないはずだ、と。しかし何度も言うけれど、人間は根本的に変わらない。そして変わらないことを認めないと、何も解決しない。

 こういう言及に対して「キリスト教を貶めるな」みたいに言う人たちは、教会で性被害にあった多くの人たちの話を、実際に聞いてみたらいいと思う。そのためにはまず被害者を探す努力が必要になる。その努力さえしようとしないとしたら、「キリストの愛」とは一体何なのか。

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