教会で、たとえばポルノや婚前交渉を禁止され、「祈り続ければ性欲は消える」「聖霊によってきよく作り変えられる」など言われ、真に受けて一生懸命祈って、欲望が薄れたような気がするけど、でも全然消えてないってわかってて、でも認めたくなくて、みたいな葛藤を沢山見た。そういう行きすぎた禁欲は本当に止めたほうがいいと思う。
祈れば、断食すれば、聖書を読めば、◯◯すれば、あなたは新しく作り変えられる! などと煽って信徒に「新生」や「ボーンアゲイン」の希望を持たせるけれど、人間は根本的に変わらないのだから、果てしない葛藤のループに陥るだけ。その終わりのない苦しみに、特に若い人たちが落ち込むのが見てて辛い。
多くの宗教は入信前を「悪い状態」、入信後を「良い状態」とする。キリスト教なら「罪深い者」から「罪許された者」へ。しかしそれが行きすぎて入信後を「きよく正しく覚醒した状態」としてしまうと、現実にはそうでないから、上記のような葛藤が生じる。
この「入信後は良い状態になる」という考え方は、信者でない人(=悪い状態の人)に対する蔑視や上目線や優越感にも繋がると思う。キリスト教は信じることを「救われる」と言って、すなわち信じないと「救われない」「滅びる」とも言うから(「滅びゆく魂」とか!)。しかしそれで上目線になるのは違う。
一方で信者に対しては「きよく正しい者につくり変えられる」と言って、生来の様々な欲求(「この世の欲」とか言う)の存在を事実上許さない。行き過ぎた禁欲。見映えは良いけれど、実は個々に我慢を強いるだけ。
結果、隠すのが上手な「聖人」ばかりが増えていく。
特にきよめ派が多いですね。
返信削除ホーリネスとかナザレンとか。
近寄らない、近寄らない。
子どもの虐待死を見ていると、加害者は家の中でじっと過ごしている父親。
返信削除牧師も同じで、教会にこもっていて子どもと思っている信徒をネチネチ虐待します。
学校や幼稚園や福祉施設を併設運営する教会は目が外に向いているので、まともなところが多いのは事実です。参考までに。