教会で増えていく「聖人」とは

2019年12月3日火曜日

教会生活あれこれ

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 教会で、たとえばポルノや婚前交渉を禁止され、「祈り続ければ性欲は消える」「聖霊によってきよく作り変えられる」など言われ、真に受けて一生懸命祈って、欲望が薄れたような気がするけど、でも全然消えてないってわかってて、でも認めたくなくて、みたいな葛藤を沢山見た。そういう行きすぎた禁欲は本当に止めたほうがいいと思う。

 祈れば、断食すれば、聖書を読めば、◯◯すれば、あなたは新しく作り変えられる! などと煽って信徒に「新生」や「ボーンアゲイン」の希望を持たせるけれど、人間は根本的に変わらないのだから、果てしない葛藤のループに陥るだけ。その終わりのない苦しみに、特に若い人たちが落ち込むのが見てて辛い。

 多くの宗教は入信前を「悪い状態」、入信後を「良い状態」とする。キリスト教なら「罪深い者」から「罪許された者」へ。しかしそれが行きすぎて入信後を「きよく正しく覚醒した状態」としてしまうと、現実にはそうでないから、上記のような葛藤が生じる。

 この「入信後は良い状態になる」という考え方は、信者でない人(=悪い状態の人)に対する蔑視や上目線や優越感にも繋がると思う。キリスト教は信じることを「救われる」と言って、すなわち信じないと「救われない」「滅びる」とも言うから(「滅びゆく魂」とか!)。しかしそれで上目線になるのは違う。

 一方で信者に対しては「きよく正しい者につくり変えられる」と言って、生来の様々な欲求(「この世の欲」とか言う)の存在を事実上許さない。行き過ぎた禁欲。見映えは良いけれど、実は個々に我慢を強いるだけ。

 結果、隠すのが上手な「聖人」ばかりが増えていく。

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