「きめ細かな牧会」って必要なの?

2019年11月7日木曜日

教会生活あれこれ

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社会経験のない牧師は社会で働く人の気持ちがわからないから彼らをちゃんと牧会できない

という話を聞いたことがあるけど、自分の知る限り、社会経験(就職した経験?)の有無と牧師さんの質は全然関係がない。そもそも「社会経験」ってザックリしすぎな言い方だと思う。

「牧会」というのも教会によって随分意味が違うと思う。自分が知ってるのは、牧師さんが信徒のあらゆる相談に的確に答え、きめ細かにケアし、緊急時には真っ先に駆けつけ、とにかく信徒がまっとうに生きられるようにその人生全体に責任を持たなければならない、みたいな感じ。いやいや責任負わせ過ぎでしょ。

ただ一部には、会社員として働くことや育児や介護をすること、闘病生活を送ることなどに比べて牧師業の方が全然大変だ、責任重大だ、と思ってる牧師さんはいる。いやいやみんなそれぞれ大変だし、責任重大なんだよ。

牧師が的確に牧会できるのは自分の年齢+-10歳の信徒(40歳の牧師なら30歳〜50歳の信徒)

というのも聞いたことがあるけれど、それもやはり「信徒の全人生をきめ細かにケアして導く」という牧会観から来てると思う。いや牧師と信徒の関係ってもっとあっさりしてていいでしょ。なんでそこまで徹底的にお世話しなきゃいけないの?

そういえば昔「弟子訓練」が盛んだったプロテスタント教会の人と話したことがある。
師にあたる人は、弟子の生育歴や家族構成や交友関係、仕事や趣味や誕生日など、いわゆる個人情報をできるだけ多く把握し、平日に何度か会って話を聞いたり祈ったり、とにかく密着度がすごそうだった。

そこまでしないと「訓練」できないの? と激しく疑問に思った。
どうも彼らは、弟子のことを未熟な人間、わかってない人間、自分で判断できない人間、弱い人間だと思って接しているようだ。いや相手は立派な大人だよね?

◇ ◇ ◇

「きめ細かな牧会」とか「弟子訓練」とか、相手(信徒や弟子)を子ども扱いしすぎだと思う。何でもかんでも干渉して、ああしろこうしろと口出ししてたら、本人があれこれ悩んで選択する機会がなくなってしまう。そうやって従順なクリスチャンを作るのが目的だとしたら、「訓練」というより「調教」だと思う。

しかしその逆に、信徒の方が牧師に何でもかんでも相談したり、夜中に呼び出したり、無理難題をふっかけたりして牧師家庭を疲弊させてる現実もあって、また別の問題があると思う。子どもならともかく、いい年した大人ならもうちょっと自立すべきでは。

結論。
牧師も信徒も、互いに自立した大人として尊重して付き合うべき。干渉しすぎない。依存しすぎない。
あるいはこう言う自分が冷たすぎるの?

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