クリスチャンは「変えられる」の?

2019年10月31日木曜日

クリスチャンのパーソナリティの問題

t f B! P L
どうしても◯◯の罪を犯してしまう、こんな自分を変えていただきたい、と一生懸命祈ったり断食したり、いろいろな信仰書を読んであれこれ試したりする人を見ると、本当に気の毒になる。人間、何かを変えようとすればするほど、どうしても変わらない事実が目について、どんどん追い詰められて、苦しくなってしまうものだから。

「この部分を変えなきゃいけない」と強く思えば思うほど、その部分が強調されて、迫ってくる。

ではもっと神に祈れば、もっと聖霊に満たされれば、もっと信仰に進めば、人間は不思議な力によって「変えられる」のだろうか。

「ボーンアゲイン」や「新生」を強調する教派があるけれど、そういうことを真剣な顔で言いながら、何十年も悪行三昧な教職者たちがいるから、説得力ゼロだと思う。それでいて信徒にはそれを強く求め、真面目な信徒ほどそれに応えようと頑張ってしまうから、上記のような蟻地獄にハマってしまう。
変えなきゃいけない、でも変わらない、もっと祈らなきゃ、もっと断食しなきゃ、もっと聖書を勉強しなきゃ、もっと献金しなきゃ……。

信徒に負いきれない重荷を負わせておいて、自分は指一本触れようとしない教職者たち。同じような表現が聖書にある。まさに現代に通用する普遍的なメッセージではないか。

何十年か生きてみればわかると思うけど、人間そんなに変わらない。いや基本的に変わらない。もしどうしても変えたいなら、それを拒否して捨てようとするのでなく、「これが自分だ」とまっすぐ認めて、受け入れることから始めなければならない。

もちろん、それで絶対に変わるわけではない。ただ拒絶していつまでも苦しむよりは、受け入れて楽になった方が結果的に良いのではないかと思う。

QooQ