どうしても◯◯の罪を犯してしまう、こんな自分を変えていただきたい、と一生懸命祈ったり断食したり、いろいろな信仰書を読んであれこれ試したりする人を見ると、本当に気の毒になる。人間、何かを変えようとすればするほど、どうしても変わらない事実が目について、どんどん追い詰められて、苦しくなってしまうものだから。
「この部分を変えなきゃいけない」と強く思えば思うほど、その部分が強調されて、迫ってくる。
ではもっと神に祈れば、もっと聖霊に満たされれば、もっと信仰に進めば、人間は不思議な力によって「変えられる」のだろうか。
「ボーンアゲイン」や「新生」を強調する教派があるけれど、そういうことを真剣な顔で言いながら、何十年も悪行三昧な教職者たちがいるから、説得力ゼロだと思う。それでいて信徒にはそれを強く求め、真面目な信徒ほどそれに応えようと頑張ってしまうから、上記のような蟻地獄にハマってしまう。
変えなきゃいけない、でも変わらない、もっと祈らなきゃ、もっと断食しなきゃ、もっと聖書を勉強しなきゃ、もっと献金しなきゃ……。
信徒に負いきれない重荷を負わせておいて、自分は指一本触れようとしない教職者たち。同じような表現が聖書にある。まさに現代に通用する普遍的なメッセージではないか。
何十年か生きてみればわかると思うけど、人間そんなに変わらない。いや基本的に変わらない。もしどうしても変えたいなら、それを拒否して捨てようとするのでなく、「これが自分だ」とまっすぐ認めて、受け入れることから始めなければならない。
もちろん、それで絶対に変わるわけではない。ただ拒絶していつまでも苦しむよりは、受け入れて楽になった方が結果的に良いのではないかと思う。
ふみなるさん、こんにちは!いつもTwitter拝見しております。今回の記事でふと、美輪明宏さんが以前おっしゃってた事を思い出したので参考までに…
返信削除『恋愛も仕事も趣味も「幸せはここしかない」「自分の道はこれしかない」と頑迷に思い込むことはやめたほうが良いでしょう。
決めた扉が開かなかったら、開いたとしてもそこが地獄だったらどうするの?
そこで人生が終わりですか?
後で「あの時、あの扉が開いてくれたら」と地縛霊のような愚痴ばかりの人生を送っても仕方ないでしょう。
むしろ、思わず開いた扉をくぐったら「あっ、こっちの方が面白いじゃん、こんな可能性が他にもあるんだ」と新しい自分の可能性に出会えることも多いのです。
“天は自ら助くる者を助く”と言います。
努力して心象風景を明るく美しく楽しく過ごそうとしている人に幸運はそっとやってくるのです。
陽の気は陽の気を呼ぶ。
運命の扉は思わぬところにあるもの。
ですから、良くも悪くもあまり自分の価値を定めつけず束縛せず、強い思い込みなどしないで、もっと大らかに自由に、自分の可能性を全方位的に信じ解放して頑張って行きましょう。』
今回の記事でふみなるさんが文末に書かれている事に似ているなあφ(..)と思いました!確かに、強烈に直視してしまうと辛いですよね。ただ最近は『いや、どこがアカンのかわかってるなら、ある意味それは救いだな。』と思えるようになってきました。そもそも原因がわからなかったら、対処法すら立てられませんからね…。『その先』があるんだなとφ(..)
聖書にヨハネの黙示録がありますね。リベラルなクリスチャンの方のなかには、ヨハネの黙示録に描かれるような神は、あまりにも暴力的で、新約聖書の「博愛的で、おやさしい」神との両立にとまどわれる方もおられるようです。
返信削除ヨハネの黙示録が書かれていた当時、クリスチャンはひどい迫害の真っ只中にありました。残酷な拷問と処刑のなかで、命を奪われる多くのクリスチャンがいました。
そのとき、クリスチャンの祈りはただひとつでした。
「マラナ・タ(主よ、来たりませ)。主がいらして、この邪悪で残酷な世界をリセットしてください。そして、もはや苦しみも痛みも涙もない神の国を来たらせてください。」
この祈りは、迫害下のクリスチャンの祈りだけでなく、ユダヤ人の祈りでもあり、白人に迫害されるアメリカの黒人たちの祈りでもありました。
迫害、差別、虐殺、搾取、奴隷化、いじめ、無関心。これらを行う人々は反省することはありません。反省する必要があるなら、そもそも彼らはそのような振る舞いをしなかったでしょう。
「私たちは変われない。変わりたくない。変わる必要がない。おやさしい神様、こんなありのままの私たちを愛してください。」これが迫害者、差別主義者、奴隷所有者、いじめっ子たちの祈りです。
俗な漫画を読んだり、ポルノを見たりなんてことはともかく、「変われない、変わりたくない」ではすまないことがあります。同じ「神の似姿」として創造された隣人を食いものにしている人々に「変われない」という選択は存在しない。
彼らは「悔い改め」の要求に応えねばならない。キリストにおいて神に仕えようとすれば、隣人を食いものにする人々に悔い改めを促さずにはおれない。イエスが十字架を負わされたように、苦難の道を歩むことになっても、傍観し、無関心でいることは神の召命に背くことになります。
たとえ悔い改めることを受けいれないとしても、「正しい人々の生活の安寧を守るために神にたてられた権威(国家権力)」に訴えてでも、態度を変えさせなければならない。ここに、「人権」をめぐるキリスト教的な政治的伝統があります。「国家」は、神が人に賦与した権利を守るために、人々の契約によってたてられ、これに仕えねばならない。
最近、ある環境活動家の少女が、演説の際に感情的に激昂したことが話題になりました。少なからぬ人々が彼女の態度に反感をもちました。「恐い…。かわいくない…。人を納得させたければ、理性的な議論で説得すべきだ」と。
しかし、彼女は、まだ生まれておらず、これから生まれて危険と不安が増したハイリスクな地球と社会を背負わされる全ての子供たちの代弁者です。彼女は全てのまだ生まれていない子供たちの声なきき声の代弁者です。だから、怒って当然なのです。「よくも!よくも!危機的な地球と社会を私たちに遺してくれたな! あなたたち大人は、今の自分たちの生活を保つために、変われない、変わりたくないと言って負の遺産を私たちに押し付けた!」
迫害され、いじめられ、無視され、ゴミのように見捨てられ、食いものにされた全ての人々の血と嘆きの祈りが神に届いている。このような人々が存在する以上、神は「愛の神」であるだけでなく、「怒りの神」でもあります。
時としてリベラルが非常に嫌われるのは、彼らが自分たちのためにしっかり安全地帯を残しておいて、そこから「キレイゴト」を語るからです。安全地帯の上でなら、どんな美しいことを語ることもできましょう。しかし、その「キレイゴト」は、貧しい人々への連帯よりも、お上品な上流階級に適応するための「社交辞令」にすぎないこともあるのです。危機的な状況にいる人々と共におり、自分自身もそのような状況におる人は、愛の神のみならず正義において「怒れる神」についても語る。
もちろん、神は全ての人が悔い改めることを望み「1000年を1日のように」忍耐する神でもあります。だから、オウム真理教のように「世の終わりが来ないなら、私たちがハルマゲドンをおこしてやろう」ということは許されない。神に代わって人を審くことは、人間が神に成り代わる行為であって、人の前でも神の前でも罪の最たるものであります。
しかし、「終わり」は必ずやってくる。たとえ、それが聖書に書いてあるような破滅ではないとしても、人は自分がまいた種による実を刈り取ることになりましょう。何よりも確実な終わりとして「死」があります。
1週間前、私の父が他界いたしました。急死でした。誰も予想だにしない死でありました。父自身も自分がなぜ死んだのかわかっていなかったでしょう。このように時として「終わり」は突然やってくる。10年後かもしれない、1年後かもしれない、もしかしたら明日かもしれない…。人が「私はこれから豊かになって神のようになるのだ!」と意気込んでいるそのときに、突然未来は閉ざされる。神の審判は常に目の前に置かれている。私たちは、自分の生がいつ取り去られてもよいように、神の前にも自分の良心の前にも「備え」を怠ることがないように生きなければならないのではないでしょうか。
「備えおれ。いつあなたの主人が帰ってくるのか、あなたにはわからないのだから」