「神の御心」に本心くるんでどこ行くの?

2019年10月24日木曜日

教会生活あれこれ

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「御心」の学校に進んで、「御心」の就職をして、「御心」の人と結婚して、「御心」の奉仕を展開して…、という「御心」を外さない、失敗しない生き方がキリスト教的信仰生活だとしたら、一般社会の自己実現的なそれと何も変わらない。ただキリスト教って名前がついただけで。もちろん、それ自体は悪くないけれど。

自分の野心とか願望とか承認欲求とかを追求して生きるのは、当然だと思う。誰だって不快より快を求めるのだから。けれど、ことクリスチャンになると「主のために」とか「神の国拡大のために」とか「人々のために」とかいう信仰っぽいオブラートに包んで、敬虔っぽく見せなきゃならないところがあって、結果正直に「◯◯したい」と言えなくなっているところがあると思う。

たとえば交際や結婚にしても、好きになった人にはっきり好きと言えなくて(あるいは好きという表明だけでは周囲に認めてもらえなくて)、なんとかして自分の「御心の人」に仕立てあげなければならない、みたいな変な努力が必要になっている。教会がそういう価値観だから、信徒は(特に立場の弱い若い人などは)それに合わせないと交際も結婚もできない。

けえれどそういうことが上手にできなくて、つまり「これが導きです」とか「これが御心です」とか信仰っぽいことが上手く言えなくて、結婚のタイミングを逸してしまった人が自分のまわりに少なからずいる。言い方は悪いけれど、結婚詐欺の教会版にあったみたいで、気の毒で仕方がない。

中には、同じクリスチャンどうしであるだけでなく、同じ教会のメンバーどうしで結婚するのが御心だ、と煽るケースもある。どれだけ選択肢を狭めたら気が済むのだろう。それで結婚して、結局上手くいかなくて、別れたカップルも多い(離婚も罪とされるので、その時点で教会から事実上追い出されることになる)。

そういうのを見ると、本当に無責任だと思う。他人の人生に干渉し、好き放題に口出しして、なのに都合が悪くなるとあっさり手を引っ込める。そして今度は断罪し、悪魔呼ばわりし、追い出す。ものすごい手のひら返し。

そうやって教会に人生を狂わされた若者が、どれだけ多いことか。

今も教会で活躍している皆さんは、自分や自分の教会は関係ない、と知らん顔するのでなく、一部でそういう被害者が量産されている宗教であることを自覚してほしい。そして「御心」とか「導き」とか敬虔っぽいことを強調して、素直な気持ちを覆い隠そうとするそのやり方が、結果的にそういう被害を助長しているんだ、と自覚してほしい。

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