【翻訳】誰がイエスを殺したのか?(Who Killed Jesus?)

2019年4月20日土曜日

翻訳

t f B! P L
 受難日を1日過ぎてしまいましたが、イエスの十字架の死についての翻訳記事をお届けします。
 アメリカの Word of Life Church の牧師、Brian Zahndさんの記事 “Who Killed Jesus?” です。
 だいぶ意訳です。及ばないところ、足りないところもあるかと思います。しかし内容に関しては原文に忠実であることを最優先にしました。
 受難週にぜひ、読んでいただければと思います。

ーーーーーーーーーー

「誰がイエスを殺したのか?」
著:Brian Zahnd
訳:フミナル

 2年前のレントのとき、十字架の恐怖についてわたしはシリーズの説教をした。
 なぜイエスは殺されたのか? なぜ拷問されたのか? なぜ磔にされたのか? そして最も重要な点として、「誰が」イエスを殺したのか?

 このシリーズ説教を通してわたしは、神がイエスを殺したのでないことを明確にした。
 パウロの説明ーーとても力強い、豊かな、宗教的な説明ーーによると、イエスは国家権力によって殺された。具体的にはポンテオ・ピラトとヘロデ王と祭司長が、政治的、経済的、宗教的な力でイエスを死に追いやったのである。福音書もそう語っている。ローマから派遣された州知事とユダヤの王と祭司長が、悪魔的に協調してイエスを処刑した、と。
 神がイエスを殺したのでなく、人間の築いた社会が殺したのだ。神がイエスの死を求めたのでなく、わたしたちが求めたのだ。

 このレントのシリーズ説教は、驚くほど人気があった。
 わたしたちの罪の許しは、神のイエス殺しに基づくものではない。そう知ることで安心するクリスチャンが多いとわたしは知った。子どもの犠牲は人類救済のための神の計画ではなかった、というメッセージは、多くの人にとって「良い知らせ」だったようだ。

 このシリーズ説教が好評を博したため、わたしはあるバイブルカレッジの公開討論会に招待された。もちろん神がイエスを殺したか否かについての討論だ。わたしの討論相手はカルバン神学の支持者だった。神の怒りを鎮めるために罪なき者の生贄が必要だった、という神学である。

 カルバン神学の問題の一つは、神を専制君主の暴君か、モラハラ三昧のモンスターに変えてしまうことだ。単純に考えて、罪を許すために罪のない者を罰する、というのは極悪非道な論理ではないか。残酷な神学であり、「義」の概念の歪曲ではないか。

「モンスターな神」(The Monster God Debate)と題されたこの討論は、ネットで数千回も視聴された。次の年にかけて、私のところに何百というレスポンスがあった。受難日は神による子殺しの日ではない、というメッセージを受け入れた人々からのレスポンスだった。

 イエスが十字架でなしたのは、単に原初的な、儀式的な生贄行為ではなかった。それよりはるかに美しく、ミステリアスなものだったのだ。儀式的な生贄は、アステカの神ケッツクアトルに対しては有効かもしれない。しかしイエスの父とはまったく無関係だ。

 十字架は、「暴力」と「許し」のすさまじい衝突だった。その「暴力」パートは完全に人間のもので、「許し」パートは完全に神聖なものだった。神の性質は暴力の中にでなく、愛の中に表れる。ローマの十字架は帝国の虐殺器具だったが、イエスはそれを神聖なる愛の象徴に変えたのである。

 イエスは我々の罪のために死なれた、というのが我々の聖書の教えだ。しかしそれは、罪の許しのために神がひとり子を悪意をもって、罪の「仕返し」として殺さなければならなかった、という意味ではない。

「仕返しをする神」という神学は、本当にあり得るのだろうか?
 怒りを鎮めるために、神が人間に何らかの拷問を加えたことがあっただろうか?
 仮に許しのために、神がイエスに死を求めたとして、それは暴力的な拷問死でなければならなかったのだろうか?
 磔でなければならなかったのだろうか?
 ローマ式の鞭打ちも加えなければならなかったのだろうか?
 イエスが死なない程度の(磔にされる前に死なない程度の)鞭打ちを、神が求めたのだろうか?
 イバラの冠は必要だったのだろうか?
 怒りを償うために、特定の本数のイバラが必要だったのだろうか?

「そんなのは馬鹿げています」とあなたは言うかもしれない。「イエスが受けた暴力のいくつかは、残虐な男たちの余計な拷問です。おまけみたいなものです」
では、その「分業」について説明してほしい。
 神の激しい怒りをおさめるために、具体的にどれくらいの拷問が必要で、残りのどれくらいが「余計な拷問」だったのだろうか?

 というわけで受難日にイエスを拷問して殺すことを神が求めた、という十字架の神学は、イエスの父を残虐でサディスティックな怪物に変えてしまうのだ。さながら「神聖なるサディズムによる救済」ではないか。

 あるいはこういう意見もあるかもしれない。「イエスの暴力的な死は神が求めたのでなく、正義のためだったのだ」
 なるほど、「正義」がイエスの磔を求めたと。
 しかしそれは、「誰が」という問いの答えにはならない。

 はたして神は女神の「正義」に劣る、下位の存在なのだろうか?
「わたしは本当にあなたがたを許したいんだよ。でもね、女神様の『正義』を優先しなければならないんだ。ほら、彼女は残酷だろ? 罪のない者を拷問して殺さないと、どうしても勘弁してくれないんだ」
 神がそう言うのを想像したら、どういう気分だろうか?

 いやいや、神は「正義」に支配される方ではない。
 わたしたち一人一人が、生贄の犠牲を求めているのだ。神でなくて。
 わたしたち一人一人が、「神がただで許すはずがない」という残忍な論理を信じているのだ。
 わたしたち一人一人が、「神は許すことができない。その正義を満足させなければ」と考えなしに言っているのだ。

 しかしこれは馬鹿げたことだ。神の雄大さに、わたしたちの卑小さを投影しているに過ぎない。
 もちろん神は許すことができる。それが「許し」なのだから。「許し」は負債を返済して得るものではない。「許し」は負債を寛大に免除するものだ。

「許し」に懲罰はない。「許し」は恵みなのである。
 神の正義は報復ではない。罪なき者の処刑でしか罪を許せないような、難解な概念ではない。懲罰的な正義は正義ではない。それはただの懲罰だ。
 神が正義として認める正義は、そういった間違いを正したところにある。身代わりに鞭打たれる子を処刑するのは正義ではない。それは不正義だ。

 放蕩息子のたとえを考えてみよう。放蕩して帰ってきた息子を許すために、父はまず召使いをボコボコにしただろうか。怒りを発散するために、召使いを鞭打っただろうか。カルヴァン神学ならばそうなるだろう。

 もちろん、放蕩息子のたとえにおいては、父は息子の散財を咎めることなく、無尽蔵の愛の宝庫によって、彼を許した。
 彼はただ許すのだ。何の懲罰もない。懲罰による正義は、彼の兄の方が求めた正義だ。激しく怒ったのはパリサイ人みたいな兄だけで、父ではなかった。

 関係を回復しようとする正義こそ、父の正義だった。身代わりの犠牲者による儀式的な生贄行為は、神の正義と無関係だ。

 儀式的な生贄行為は、古くは贖罪のヤギだった。部族全体の危険を遠ざけるために、一頭のヤギを生贄として捧げたのが起源だ。しかしそのような儀式的な生贄は、神の心に基づくものではない。人間の暴力的な心に基づくものだ。

 たしかにイスラエルの歴史において、モーセの律法は罪の贖いとして血の生贄を求めた。
 しかしこの考え方は、のちに預言によって覆された。モーセの儀式的な生贄に関する律法から600年後、ダビデはこう言った。
「あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない。」(詩篇40:6・口語訳)

 ホセア書はこう言う。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない」(ホセア6:6・口語訳)

 だからヘブル人への手紙の著者もこう書いたのだ。
「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブル人への手紙‬ ‭9:22‬・‭口語訳‬‬)

「それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、『あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった』」(‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭10:5-6・‭口語訳‬‬)

「その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」
 ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、 次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。
 すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである」(ヘブル人への手紙‬ ‭10:7-9・‭口語訳)

 言い換えるなら、神の正義をたしかに行うために、古い儀式的な生贄を神ご自身が廃止した、ということを詩篇の著者も、預言者たちも、ヘブル人への手紙の著者も理解していた、ということだ。

 そしてそれはイエスの生涯にも表されている。
 イエスは神の意志を体現するのに忠実だった。罪人たちを許して血を流しているときでさえも忠実だった。

 イエスは儀式的な生贄として、神に償うために血を流したのではなかった。
 それは神の願いでもなかった。イエスは父の意志に忠実に従ったゆえに血を流したのだ。神聖なる「許し」を示すために。磔にされてさえも。

 生贄信仰に取り憑かれたパリサイ人に、イエスが言った通りだ。「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい」(‭‭マタイによる福音書‬ ‭9:13‬・口語訳‬‬)

 神が求めるのは、いつくしみを示す生き方だ。生贄となる犠牲者ではない。
 イエスの死は「なだめの供え物」でなく、神の恵みのこれ以上ない表れだった。
 イエスは神の「許し」を得るために血を流したのではない。イエスは神の「許し」を体現するために血を流したのだ。

QooQ