キリスト教信仰に篤いシンジロウくんがいました。
彼は請われるまま、友人の連帯保証人になりました。しかし署名してすぐ、その友人が失踪。代わりに借金を背負うことになってしまいました。なんとその額1000万円。
シンジロウくんは貯金がなく、貸してくれる相手もいません。牧師に相談するのも大ごとになりそうでできません。一生懸命祈りましたが、これといった答えもありません。仕方なく、毎月5万円ずつ返済することにしました。利息も合わせて、20年くらい掛かります。
シンジロウくんはこう考えました。
「僕は友人を愛するがゆえ連帯保証人になった。主の教えを守って隣人愛を行ったんだ。だからこれは神様からの試練、いや恵みなんだ。こうやって毎月友人の身代わりにお金を返すことは、僕にとって負うべき十字架なんだ。主がそう定めておられたんだ」
そして20年後。
壮年になったシンジロウくんは、借金を無事返済しました。貯金はほとんどありません。返済で精一杯でしたし、余裕があれば教会に献金してきたからです。しかし「自分の十字架を負い切った」という自負心は、少なからずシンジロウくんを満足させました。
そしてある時、この話を未信者のミシンタロウくんにしました。神様がどんなに素晴らしいお方か、伝えたかったのです。
ところがミシンタロウくんは即座にこう言いました。
「その場合はまず弁護士に相談するべきでしたね。自己破産すべきだったかもしれません。興信所に相談して、ご友人を探させることもできたでしょう。そういうことは考えなかったのですか?」
シンジロウくんは若干動揺しましたが、「いえ、これで良かったのです。神様が負わせるものを、どうして断れましょう」と自分に言い聞かせるのでした。
ミシンタロウくんは、「信仰を持っている人は面白い考え方をするんだな」と内心思いました。ちなみに彼はクリスチャンにはなりませんでした。シンジロウくんの行動が、どうも解せなかったからです。
さてミシンタロウくんは、同僚のリベ子さんにこの話をしました。リベ子さんもクリスチャンです。
「クリスチャンってみんなシンジロウくんみたいなの? 黙って他人の借金を背負うようなお人好しなのか、って意味なんだけど?」
リベ子さんはリベラルな考え方をする人でした。彼女は「教派によって違うと思う」と無難に答えておきました。しかし内心こう思いました。
「他人の借金を負うことが神様の意思? そんなこと、わかるわけないじゃない。自分の失敗を認めたくなくて、勝手に決めつけただけでしょう」
☆ ☆ ☆
この話は、誰が間違っているとか正しいとかを論じるものではありません。「信仰の難しさ」を考えるためのものです。
シンジロウくんみたいな人いますね。リベ子さんみたいな人もいます。両者が議論するとだいたい平行線に終わります。同じクリスチャンなのになぜそんなことが起こるのでしょう。
それはさておき。
シンジロウくんは降りかかった借金を「神の御心」と信じました。これは彼の「信仰」です。他人の借金を背負うのは明らかに不幸な出来事ですが、「神からの試練」と考えることでその「不幸」を「幸福」に変えようとしたのです。いや、たぶん彼の中では、変わったのです。それが信仰の力でもあるしょう。
ですからシンジロウくんは、「他人の借金を負うことが御心かどうかは断言できない」とは言えません。せっかく築いた「幸福」が崩れてしまいますから。あくまで「神からの試練」でなければならないのです。その意味でリベ子さんの立場は、シンジロウくんから見たら「不信仰」でしかありません。
よくこう言われます。
「信仰を持つのは個人の勝手。それを他人に押し付けなければ何でもいい」
しかしシンジロウくんは、他人に押し付けずにいられません。絶対的に正しいと信じていますし、そうでなければ自分の「幸福」も崩れてしまうからです。自分が負った借金が「神からの試練」であるためには、他人にもそれを主張し続けなければならないわけです。
ですから繰り返しますが、リベ子さんの考え方は(シンジロウくんにとって)到底容認できるものではありません。
一方でリベ子さんも、自分の考え方や主張を譲ることはできません。でもそれは「何が御心かはわからない」という中立的なものです。シンジロウくんのように強く「こうだ」と主張しないのが、リベ子さんの主張なのです。違いがわかるでしょうか。
というわけでミシンタロウくんから見ますと、シンジロウくんは過激で話が通じなさそうな相手、リベ子さんはわかってくれそうな相手、ということになります。
これ、現在のキリスト教界隈の構造を表していると思います。どちらが良いとか悪いとかの話ではありません。つくづく信仰って難しいなあと思います。
さて皆さんはどう考えるでしょうか。
鋭く問題を浮き彫りにする話をありがとうございます。
返信削除この世の現実の世界で起きた現実的な問題(ここでは連帯保証人になって多額な借金を背負ったこと)に現実的な解決ができるようになる為に、神から与えられた試練である、とは考えないところが不思議ですね。
こういう場合にはこういう言い方も出来るかもしれません。
友人を見つけるなり、自己破産するなり、現実的な解決をすることで、肩代わりすると決心した分を返済にあてずに、全て献金することだって出来たのに、神の御心を自分勝手に解釈することでそのチャンスを失った。とも言えるはず。神の御心は現実的な手段で問題を解決しその分を献げることであった。と考えることも出来たのに、それをしないのは不信仰であるとも。
知り合いの創価学会員に、学会員同士で借金をしているかと尋ねたことがあります。知り合い曰く、信心している学会員は、同じ学会員に借金を頼まない、たとえ頼まれても、信心していたら応じない、信心していない人は頼むし応じるでしょう、と言っておりました。
返信削除私の祖母は、まさにこの話しのように友人の借金の連帯保証人になりました。その後、その友人は失踪。祖母は多額の借金を背負うこととなりました。最終的に自己破産に至りましたが、祖母は多重債務のストレスからか脳梗塞で亡くなりました。
返信削除祖母はクリスチャンではなく、仏壇の前で祖父の位牌に手を合わせる程度のお人好しで素朴な女性でした。
祖母は愚か者だったかもしれません。しかし、祖母が間違っていたかどうかはわかりません。祖母のせいで多くの人が大変な苦労をしましたが、誰も祖母を責めることはしませんでした。私も祖母に対する否定的な感情はありません。もちろん、祖母が連帯保証人のサインをするときに居合わせていたなら、別の可能性を探したと思いますけれども。
聖書に「パンが増える奇跡」の話しがありますね。あの奇跡についておもしろい仮説があります。
その仮説によると、イエスについていった人々は実はパンを手弁当として持参していたのだ、と。イエスとその弟子たちがなけなしのパンをちぎって配ろうとする姿を見て触発され、人々が隠していたパンをちぎって隣りの人に分け与えた結果、余ったパンくずが大量に増えたのだと。
もちろん、これは仮説であって、本当に奇跡がおきたのかもしれません。しかし、この仮説のとうりだったとしても、それはそれで別の奇跡をあらわしているでしょう。
自分が損をしてまで人のために犠牲になることは愚かなことです。しかし、誰もかれもが賢明に損を回避して得になることだけを選択するのだとしたら、めぐりめぐって自分が困ったときには誰も助けてくれず、「自己責任」として切り捨てられることになるでしょう。
私たちは誰もかれもが損を回避して得になることだけを選択しようとした結果、人と人の間が分断され、疑心暗鬼になり、他者に無関心で冷たい社会になってしまいました。人と人が信頼できる暖かい社会にしたいと思ったら、まず自分から損を覚悟の上で他者のために身を投げ出してみなければならないということもあるのではないでしょうか?
キリスト教は、これを「聖なる愚かさ」と言いました。
「十字架の言葉は、知恵のギリシャ人には愚かなものなれど、我々にとっては救いの言葉」
「神の国」が、地上においては人と人が助けあう愛の共同体を意味するのだとしたら、神の国は、たとえ愚かであっても他者のために身を投げだす「一粒のからし種」からはじまります。それは愚かなことかもしれませんが、誰かが最初に人を信じることをしなければ、社会は分断されたままになることでしょう。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、もし死ねば、多くの実を結ぶ。」 ヨハネ福音書12・24