キリスト教的には「自殺は罪」なのですか

2018年12月9日日曜日

教会生活あれこれ

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 ちょっと自殺について考えてみましょう。
 物々しいテーマですみません。ガチなクリスチャンの皆さんを怒らせてしまう内容かもしれませんので、そのことも先の謝っておきます(笑)。

 キリスト教界的にも、一般論的にも、「自殺はダメ」というのが概ね共通した認識だと思います。反対意見はきっと少ないでしょう。おそらく現在、どこの国に行っても、どの地域に行っても、自殺を推奨するところはないと思います(あったらごめんなさい)。

 でも「自殺はダメ(罪)」というのは、必ずしも普遍的なものではありません。たとえば日本には長く「切腹」という制度がありました。

 およそ平安時代から明治時代まで、武士社会においては、切腹自殺は「美徳」みたいなものでした。何かの不始末の責任を取るため、あるいは武士としての名誉を守るため、自ら腹を切って死ぬのが「潔い」とされていたのです。
 たとえば「忠臣蔵」の赤穂浪士たち。「白虎隊」の若者たち。他にも多くの有名無名な武将たちが、切腹によって自らの命を絶ってきました。

 あるいは太平洋戦争中は「特攻」という自殺が推奨されましたし、戦艦大和は片道分の燃料だけ積んで出撃しました。敗戦が迫る頃は、敵の捕虜になるより自害を選んだ(選ばされた)兵士たちも多くいたと聞いています。

 つまり今は「自殺はダメだ」と言っていても、時代が変われば「自殺しろ」と言うこともあるわけです。今後またそういう時代が来ないことを願うばかりですが。

 ではこの切腹は、あるいは「自殺を命じられる」ということは、いわゆる「自殺」なのでしょうか。

 上記の「本能寺の変」の首謀者はご存知、明智光秀ですが、その三女は細川ガラシャ夫人です。彼女も最終的に自害する羽目になるのですが、敬虔なカトリック信者だったガラシャ夫人は、自殺するわけにいきません。だから家臣に、槍で突くよう命じたそうです(諸説あります)。

 でもそれが本当だとしたら、家臣に「殺人の罪」を犯させたわけですよね。それはそれでカトリック信者としてどうなのって思いますが。
 また下手人が家臣だったというだけで、結局これは自殺と同じなのではないのかな、とも思います。自ら死のうとしたのですから。
 あるいは「自害せざるを得ない状況に置かれた」のだから、結局は「殺された」のかもしれません。
 そう考えると、何が自殺で何が自殺でないのか、よくわからなくなってきます。

 そもそもの話、切腹自体が本当に「自殺」なのでしょうか。死刑の一方法として「自分で腹を切れ」と命じられただけで、結局は死刑だったのではないでしょうか。切腹せざるを得ない状況だったのですから。
 となると、「切腹=自殺」と単純に考えられないわけです。

 イエス・キリストの場合を考えてみましょう。
 イエスは全人類の罪を背負って十字架刑に処せられるのを、あらかじめ理解し受け入れていた、というのが一般的な聖書理解です(ですよね?)。つまり彼は、死ぬとわかっていて敢えてローマ兵に捕まる道を選んだ、逃げることもできたけれど逃げなかった、ということです。

 これ、考えようによっては自殺ではないでしょうか。冒涜的な意図はありませんが。
「自殺は罪だ」と言うクリスチャンの始祖とも言うべきイエス・キリストが自殺だったとすると、これはかなりの皮肉ですね(笑)。

「それは全人類を救うためだ。人類への愛のためだ」という擁護意見もありそうですが、であるなら「動機が良ければ自殺も許される」ことになり、「自殺は罪だ」という説は崩れます。

 それにしてもイエスは特殊な状況にもあります。彼が十字架で処刑されたのは「父なる神」の御意志でもあったのですから、その意味では「父に殺された」とも言えそうです。何だか混乱しますね。
 混乱ついでにもう一つ書きますと、「父なる神」と「御子なるイエス」は根源的に同一の神ですから、やはり「自らの意志で死を選んだ」とも言えそうです。わかりやすく言いますと、「神が十字架で自殺した」。
 さて、本当のところはどうなのでしょう(笑)。

 いずれにせよ、一部の教会で安易に語られる「自殺=罪」という図式が、実はそう安易に語られるべきものでないんだ、ということがおわかりいただければと思います。
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 本記事はメルマガ第48号から一部抜粋、編集したものです。

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