「カトリックvsプロテスタント」なんてやめましょうよ

2018年10月30日火曜日

教会生活あれこれ

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 つい先日、ツィッター上で、カトリックの方とプロテスタントの方の論戦(?)があったようです。
 詳しく読みませんでしが、論戦と言うほど高尚なものではない気がしました。あーまたか、くらいの感想でした。

 プロテスタントの中でも時々同じような「衝突」が起こりますが、およそ宗教に関する論戦ほど不毛なものはないように私個人は思います。「神学論争」という言葉がある通り、ですね。

 宗教に関する議論はやめた方がいいと私が思う理由は、それが個々人の信仰・信念・心情に関わるものだからです。また生育環境や生活歴の影響も受ける、感情的なものだからです。

 たとえば二千年くらい前に処刑されたイエスを「神の子」と信じる、科学的根拠があるでしょうか。私の知る限り、ありません(もしあれば、世界中の人がクリスチャンになっているはずです)。にもかかわらず、私個人は彼を「神の子」と信じています。いったいなぜ? その合理的な説明は私にもできません。ただそう「信じたいから信じる」だけです。

 そのように個人的な心情や感情が影響するのが宗教ですから、たとえ同じキリスト教であっても、違う教派どうしで議論したって何にもなりません。互いに信じていることを主張するだけになります。言うなれば、泥を投げ合うようなものです。意味がおわかりいただけるでしょうか。

 ことカトリックvsプロテスタントに関しては、宗教改革というしがらみがありますから、「因縁の対決」みたいになってしまいます。これは本当にやめた方がいいですね(笑)。

☆ ☆ ☆

 私個人は、プロテスタントの聖霊派で長年嫌な思いをした経験から、今はカトリックのミサの方に安息を覚えています。
 ただ(カトリックの方には申し訳ないですが)、カトリックの教義に隅々まで納得しているわけではありません。ここで詳しく書きませんが、「え、そうなの」と思うようなことが、なくはありません。

 じゃあプロテスタントの礼拝に通えばいいじゃないか、というもっともな意見を言われそうです。
 でも私の心情的にそれはできません。いえ、できますけれど、あまりしたくありません。

 一つだけ書かせていただきましょう。
 プロテスタントの礼拝(プロテスタントで一括りにするのも乱暴だとは思いますが)で、牧師が30分も40分も50分も「メッセージ」と称して話し続けるの、あれいったい何なのですか。長すぎますよ。私はどうもあれが納得できません。

「今までそうしてきたから」
「それが伝統だから」
 という言い訳はなしにしましょう。
 礼拝に絶対必要な要素として、「30分以上の説教」があるのですか。ないですよね。

 全ての教会を見て回ったわけではありませんが、ほとんどのプロテスタント教会で私が思ったのは、「この人(牧師)はマイクを持って話すのが好きなんだな」です。

 つまり「聖書を解き明かす」という大義名分のもと、多くの牧師は、自分の話を「みんなに聞いてもらいたい」のです。
 そんなことはない、と主張する牧師の方がいるでしょうか。主張するのは自由ですが、ご自分の胸に手を当てて、よく考えてみてからにして下さい。みんなが頷いたりアーメンと言ったりするのをみて、満足しているんじゃありませんか。

☆ ☆ ☆

  プロテスタントで嫌な思いをしてカトリックに転向した、という人は残念ながら私のまわりにはほとんどいません。
 もともとプロテスタントか、もともとカトリックか、だけです。
 ですからあくまで私個人の感覚として書きますが、プロテスタント教会よりカトリックの方が居心地がいい、というのが正直なところです。教義云々の問題ではありません。

 プロテスタント教会の濃すぎる人間関係、強すぎる同調圧力、監視社会に比べたら、カトリック教会のなんと軽やかなこと(笑)。濃すぎる人間関係がいいんだ、という人もいるでしょうけれど、私自身はそういうのはもうお腹いっぱいです。「30分以上の説教」も、もう十分に聞きました(もちろんこれからも、どこかのプロテスタントの礼拝に参加する機会はあるとは思いますが)。

 というわけで、礼拝に参加する、ミサに参加する、というのは教義の部分を越えて、心情や感情に支えられているものです。
 おそらく今プロテスタントで頑張ってらっしゃる人、カトリックで頑張ってらっしる人も、感情的な部分に少なからず負っているのではないでしょうか。

 だから話は最初に戻りますが、宗教に関する議論はしない方がいいわけです。
 自分が何を信じるかは自由です。でもその自由が他者にもあることを、私たちは忘れてはいけませんね。

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