牧師に祈られると倒れるんですか?

2018年7月8日日曜日

教会生活あれこれ

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 ちょっとこの動画を見ていただきたいです。
 18分くらいの長めの動画ですが、一番注目したいのは11分0秒から11分30秒までです。


 TBSの『モニタリング』という番組で、EXILEグループの関口メンディーくんと白濱亜嵐(しらはまあらん)くんが騙されるシーンですね。
 ニセ気功師が「気」だけで相手を倒す、というのを実演します。EXILEの他のメンバーは「気」を感じたフリをして倒れるのですが、ターゲットであるメンディーくんと亜嵐くんは(当然ながら)何も感じず、倒れません。
 でも事前に「これは重要な収録だ」と言われているし、プロデューサーにずっと睨まれているし、皆ニセ気功師に倒されて「すげー」とか言ってますから、「感じない自分がおかしいのでは」と考えてしまうのですね。

 でもメンディーくんは正直なので、「感じないものは感じない」という姿勢を貫きます。
 一方の亜嵐くんはいろいろ気を遣うタイプなのでしょう。空気を読んで、最終的に「感じたフリ」をします(その最初のシーンが動画の11分0秒から11分30秒です)。そしてそれ以降、亜嵐くんは「感じたフリ」に徹します。ニセ気功師の「気」で動けなくなったり、倒されたり、棒で叩こうとして「気」に阻まれたり。完全に演技なのですが、たぶん本人は「こうしなければならない」と思っているのでしょう。
 その心理がよく伝わってくる「実験」だと私は思いました。

☆ ☆ ☆

 これを見ながら私が真っ先に思い出したのが、聖霊派教会での「聖霊の働き」でした。
「聖霊に満たされて」泣き出すとか、「聖霊の圧倒的臨在」で倒れるとか、喜んで踊り出すとか、「異言」が溢れてくるとかですね。
 ちょっとこの動画も見てみて下さい。気持ち悪いので、4分30秒から4分45秒あたりだけでいいです。


 手を置かれた人たちがどんどん倒れていくシーンが映っています。

 この手の集会では「アッシャー」と呼ばれる奉仕者たちがいます。倒れる人をうしろで支える係ですね。そのまま倒れると危ない場合に、よく配置されます。
 つまり「祈られて倒れる」というのが、習慣や文化になっているのです。「倒れるのが当たり前」「倒れるのは聖霊に敏感な証拠」みたいな感じで。

 私もそういう教会にいましたから、同じような経験を何度もしています。でも私はメンディーくんと同じタイプだったので、倒れたことがありません。何も感じなかったし、倒れる理由がなかったので、倒れなかっただけなのですが(笑)。

 でも周りの人たちは、やはり次々と倒れていくのでした。
 今思うと、あれは亜嵐くんと同じような「演技」だったのではないかな、と思います。

 ちなみに周りの皆が倒れているのに、自分だけ残って立っているのは、なかなか辛いものがありましたね(笑)。

 では何も感じないのにどうして倒れるかと言うと、たぶん「聖霊の働きを感じたい」からです。または「自分の信仰レベルはそれを受けるにふさわしい」と思いたいからです。あるいは「周りの皆が倒れているから、きっと自分も何か感じて倒れるはずだ」と思い込んでいるからです。

 こんなことを言う私は、「不信仰」なのでしょうか。
 聖霊派教会でバンバン倒れている人たちはきっとそう言うでしょう。
 でも冒頭の動画で亜嵐くんが「感じたフリ」をしなければならなかった心理は、たしかに存在します。それを否定することはできません。 そして亜嵐くんの「感じたフリ」と聖霊派の人たちの「感じたフリ」を明確に区別する根拠は、何もありません。

☆ ☆ ☆

 さて前述の通り、私はいくら按手されても祈られても倒れない口でした。牧師も無理に倒そうとはしませんでした。当たり前ですが。
 しかし長い年月が過ぎて、牧師にも変化がありました。按手の時に、明らかに力を加えて、私を倒そうとするようになったのです。押されれば、そりゃ倒れますよ。
 でも私はやっぱり素直でしたので、「人に押されて倒れても、それは聖霊によるものではない」と思いました。だから牧師に押されても、何気に抵抗していました。踏ん張って倒れないようにしていたのです(笑)。

 これ、傍から見ると面白い光景かもしれません。一見「按手の祈り」なのですが、実は互いに押し合っているという。
 何やってんだって感じですね(笑)。
 

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