前回は「知的で霊的なメッセージ(礼拝説教)に見せるテクニック」というふざけた話でしたが、今回はもうちょっと真面目な視点から、「メッセージ(礼拝説教)」について考えてみたいと思います(以下、礼拝説教は「メッセージ」と表記します)。
私の教会では、日曜のメッセージはやたら長かったです。平均して1時間とか1時間半とか掛かっていたでしょう。その後の「招き」の時間も加えればもっとですね。2~3時間だったかもしれません。
礼拝が終わると、もう日曜は終わったようなものでした(笑)。
メッセージの流れはだいたいこんな感じです。
・先週の日曜から昨日までにあったこと(牧師が参加したイベントや、牧師の個人的なことなど)。
・最近の日本の「霊的状況」について。
・本題(平均3~4個のポイントがある)。
・以上を踏まえての祈り(ものすごく長い祈り)。
・そのまま「招き」に突入(待ち時間がやたら長い)。
終わってからまた賛美や祈りがあるので、もうグッタリです。でも牧師に言わせれば、それは疲労感でなく「霊的充足感」らしいです。疲れすぎてハイになっていただけのような気もしますが。
しかし多くの信徒が、メッセージの内容をしっかりメモに残していました。私もだいたいそうしていました。正直言うと寝落ちしていたこともありましたが(笑)。
でも真面目な話、メモに残しておかないと大変なことになります。というのは翌週のメッセージの冒頭で、「先週のメッセージは何だった?」と聞かれることがあるからです。もちろん毎回ではありませんが、もし聞かれて満足に答えられなかったら大変です。特に私のようなスタッフ(献身者)が答えられなかったらシャレになりません(笑)。
牧師は「先週をメッセージを誰も覚えていない」と嘆いていました。だから、聞くようにしたのでしょうね。
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ところで「先週のメッセージを誰も覚えていない」というのは、もしかしたら多くの牧師さんが持っている悩みかもしれません。
実際、どれくらいの信徒の方が、先週聞いたメッセージの内容を覚えているでしょうか。
牧師さんが土曜日丸一日かけて、あるいは数日とか一週間とかかけて準備したものが、信徒の記憶に少しも残っていないとしたら、それは確かにショックだったり残念だったりすると思います。ご同情申し上げます。
ただこれ、私が思うに、(はっきり言いますが)メッセージの方にも問題があります。
一つは「長すぎる」という問題です。そしてもう一つは「(長いわりに)何が言いたいのかわからない」という問題です。
人間、5分くらい話を聞いてもポイントが見えてこないと、嫌になるものです。
牧師さんはもしかしたらいろいろ準備している中で、あれも言わなきゃ、これも言わなきゃ、と膨れ上がってしまうのかもしれません。それで明瞭簡潔さが失われてしまうのではないでしょうか。
私はカトリックのミサに時々参加させていただくのですが、カトリックは儀礼的な流れが中心で、神父さんは5分か10分くらいしか話しません。それがいいですね。「あ、もうちょっと聞きたいな」と思うくらいです。どんな話だったかもよく覚えています。
でもこれがプロテスタントになると、良心的なところでも最低30分は話します。私はついつい時計を見てしまいます。いつ終わるんだろうなと(もちろん、何を言いたいのだろうかと一生懸命聞きますよ)。
たぶん長く教会に属しておられる信徒さんも、メッセージの後半になると「早く終わらないかな」と思うのではないでしょうか。そういう我慢が習慣的になっていると思うのですが、違いますか?
「いやいや、メッセージは信徒を霊的に養うのに重要なのだ。そんな軽んじてはいけない」という意見もあると思います。
でもその「霊的養い」とは、具体的に何ですか。どういうメッセージでどれくらい養われて、どういう効果があるのですか。そのメッセージを聞かないと、どうなるのですか。
たとえばメッセージの時間、お腹が痛くなってトイレに行って、終わった頃に帰ってきたとします。友達に聞きます。「どんな内容だった?」
その友達が優秀な人で、要点をサクッとまとめてくれます。
するとあなたは「ああこういう話ね」と合点して、なんだかメッセージを聞いたような気にさえなります。
これでは、「霊的」に養われないのですか?
よく若手の牧師さんや神学生さんは、「◯◯先生の説教テクニックから学ぶ」みたいなことを言いますね。
でも私に言わせれば、説教にテクニックなんて要りません。簡潔にわかりやすく話してくれればそれでいいです。しかも5分とか10分とかで十分です。
「それじゃ短すぎるよ。聖書のことが学べない」という意見があるかもしれません。では、先週聞いたメッセージを思い出してみて下さい。そして要点をまとめてみて下さい。そんな膨大な量になりますか。ならないと思いますが。
だいいち礼拝に十年も二十年も参加していても、聖書についてほとんど知らない人々がいます。
これは、典礼としてのメッセージと、聖書の「勉強」は違う、ということではないでしょうか。
そのあたりを混同しているから、長々とメッセージしてしまって、結果「誰も先週の内容を覚えていない」という事態になっている気がします。
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と、メッセージについてだいぶ文句を言ってしまったようですが、ついでなのでもう一つだけ(笑)。
一部の牧師さんはメッセージを「命がけで作った」とか「全身全霊を込めて語った」とか言いますけれど、そういうのは(事実だとしても)自分で言うことじゃありません。厚かましいです。
それ、感謝しろってことですか? 心して聞けってことですか?
そういう「苦労アピール」をするくらいなら、メッセージなんかしなくていいです(笑)。
たぶん信徒の方も、司牧に命がけでメッセージしてくれなんて思ってませんから。