私の教会はよくこんなことを言ってましたね。
「心をよく見張なさい。御言葉で武装しなさい。でないと悪魔が、あなたの心に要塞を築いてしまうから」
ボケッとしていると、悪魔が心に入ってきて、「悪魔の要塞」をこしらえて、好き勝手にしてしまうそうです。結果、私は罪を犯して、堕落してしまうとか。そうなったら神を信じていても地獄行きなのでしょうか。
怖いですね。恐ろしいですね。酷くなると『エクソシスト』の女の子みたいに、天井を這ってしまうのかもしれません。そうなったらついでに天井の拭き掃除でもしようかと思いますが。
聖霊派教会に通ったことがある方なら、「悪魔の要塞」なる話を聞いたことがあると思います。
心の中は戦場になっていて、「神の側」と「悪魔の側」が対立していて、どちらかが優勢になったり劣勢になったりしている。人間はその結果を受けて「良く」なったり、「悪く」なったりする。
ジョイス・マイヤーさんの『思考という名の戦場』の影響が、少なからずありそうな話です。
この話を真に受けると、なかなか大変なことになります。
とにかく24時間、心を見張っていなければなりませんから。
でも生きていれば、その時その時でいろいろな「思い」や「考え」が浮かんでくるでしょう。それらをいちいち取り上げて、これは神のものか、それとも悪魔のものか、あるいは自分のものか、と吟味しなければなりませんが、そんなこと本当にできるのですか?
たとえばある時、「Aさんに対して腹が立った」としましょう。この「怒り」に、どう対処すべきでしょうか。
「これはAさんを戒めなさい、という神様からのメッセージなのだろうか」
「ここでAさんに対して怒ったら、悪魔の思う壺なのだろか」
「単に私自身が(人間的な思いで)腹を立てているだけなのだろうか」
そんなこといちいち考えていられるでしょうか。それ一つだけならまだしも、浮かんでくる思考全部に対してそういうプロセスを施すなんて、現実にできるのでしょうか。できないと思いますが。あるいはできたとしても、自分のことだけで精一杯になってしまうのではないでしょうか。
知り合いの1人は、この「悪魔の侵入」を意識するあまり、絶えず「悪魔よ退け。イエスの名によって悪魔よ退け」と呟いていたそうです。職場でも自宅でもずっとです。そうせずにいられないくらい、強迫的になっていたのです。哀れとしか言いようがありません。
この「悪魔の要塞」あるいは「悪魔との絶えざる戦い」という考え方には、一つ合理的な疑問があります。
こういう疑問です。
「悪魔の要塞」が原因で罪を犯すなら、そもそも人間は悪くないのでは?
仮に「悪魔の侵入」を許してしまったとして、それを人間の側の「落ち度」と仮定しましょう。でもその結果として心の中に「悪魔の要塞」ができてしまい、そのせいで罪を犯さずにいられなくなったのだとしたら、それは言わば「操られている」状態なので、人間の「罪」ではありません。悪魔の罪です。「悪魔の要塞」がそれほど抗いがたい影響を及ぼすなら、もはや人間の責任ではないわけです。「思考」を支配されてしまっているのですから。
これがどういうことか、わかります。
つまり「性善説」です。人間はそもそも悪くない。「悪魔」の影響で、罪を犯さずにいられなくなってしまう。だから「悪魔」がいなければ、人間は罪とは無縁の存在なのだ、という。
でも罪って、人間が自ら犯すものではありませんか?
ヤコブの手紙1章15節はこう言っています。
「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」
エレミヤ書17章9節はこうです。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」
聖書は全体的に、人間を「性悪説」としてとらえていると私は思うんですけどね。「原罪」という考え方もありますし。
☆ ☆ ☆
心の中にできる「悪魔の要塞」という考え方は、そういう人間の悪いところを正当化しようとする、下手な試みのようにも思えます。
たとえば問題を起こした牧師が、「悪魔の策略にハマってあんなことをしてしまった。でもあれは本意じゃなかった」とか言います。
あるいは身内が問題を起こしてしまった時、「あいつは心を守る訓練がまだできていなかった。未熟さゆえだから、見逃すべきだ」とか言います。
その問題で被害に遭った人のことなんて、完全に無視です。自分たちは悪くないわけですから、ロクに謝罪もしません。
つまり大胆にも「悪魔」を利用しているわけです。そして「神」をも利用しているわけですから、もう怖いものなしです。
そういう教会で、まともな信仰生活が送れると思いますか?
身に覚えのある方には、そのあたりをよくよく考えてみることをお勧めします。
「悪魔のささやき」をどう考えるかですね。道端に1万円札が落ちている、誰もみていない、どうするか、猫糞しようという心が芽生える、それが悪魔のささやきでしょう。悪魔のせいにして猫糞すると、自分は悪くないと、悪魔が悪いのだとわけですね。
返信削除赤信号だが、車は全く来ない、渡るのは100%安全だ、悪魔がささやいて「だいじょーぶ」という、まあほとんどの人は渡りますね。悪魔がささやきすらしないかもしれませんね。
どうしようかなあと迷ったときに、良心と、邪心が葛藤するわけで、邪心のことを悪魔というわけですよ。
これは何も、キリスト教徒だけに限ったことではないですね。
悪魔に負けた自分が悪いのか、自分を負かした悪魔が悪いのか、どっちなんだというわけですね。悪魔が悪いという方が人間は助かりますね。お前が悪いからだと言われるよりは。
単なる「良心」と「邪心」の葛藤だと自分でわかっていれば、さほど問題にはならないでしょうね。問題は「悪魔の侵入を許してはならない」と強迫的になってしまい、結果的に病的な混乱に陥ってしまうことだと思います。
削除その意味では、心の動きにあまりフォーカスを置くのも良くないです。これは神からか、これは悪魔からか、と気にしてばかりいたら、誰だって心のバランスを崩してしまうと思いますね。
心の中に「悪魔の要塞」が造られてしまうのですか?というテーマから脱線してしまいますが、聖霊が心の王座をどれくらい治めていますか?とういメッセージがあったのを思い出しました。
返信削除聖霊による心の占有率を聞かれていたので、今もバカですが当時は真剣に考えた事があった。
少なくとも「悪魔の要塞」よりは良いのか?と思います。悪魔に責任転嫁は出来難いから。でも心のバランスを崩す可能性はあるかも。
ありがとうございます。
削除「聖霊の宮がどれくらい心を占めているか」というのは、「悪魔の要塞」と対をなす考え方だと思います。上のコメントの「良心」と「邪心」の対を、単にクリスチャンっぽく言っただけなのかな? という気もします。
「心を見張る」というのは、そこが聖霊vs悪魔の主戦場になっているからという意味ではないと思いますね。であるなら私たちの心は、だれか他人に乗っ取られているのと同じですから。そうでなく、「心の健全さを保ちなさい」という意味合いだと私自身は考えています。