クリスチャン女性は、露出の多い服装をしてはいけないのですか?

2018年7月30日月曜日

教会生活あれこれ

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 今回はクリスチャン女性の服装のお話です。
 
 一部の教会では、まことしやかにこんなことが言われています。
 「女性は露出の少ない、慎ましい身なりをしなさい

 つまり女性は服装について、2つをオーダーを受けています。

 1、露出の多い服装ではいけない。
 2、派手な、あるいはファッション性の高い服装ではいけない。

 誤解のないように書いておくと、これらは聖書からのオーダーでなく、教会からのオーダーです。

 一方で男性には、さほど守るべきオーダーはないようです。あんまりカジュアルじゃなければいいよ、みたいな。さすがに牧師はスーツで着るのがルールのようになっていますが。

 さて、ではどうして女性だけが、厳しいルールに晒されるのでしょうか。

 その理由としてよく言われるのが、露出の多い服装は男性にとって誘惑になるから、です。
 男性は特に「情欲の罪」に陥ることが多いですから、そういう誘惑になりえるものを見せてはいけない、できるだけ隠さねばならない、というわけです。

 以前、ある牧師からこんな話を聞きました。
 神学生時代のある夏、同級生の女子がよくタンクトップで過ごしていた。自分はそれを見ないように一生懸命避けた。しかし彼女と一緒に活動することが多かったから、思い切ってこう頼んだ。「そういう服装はやめて、袖のある服にしてくれ」
 彼女は渋った。けれど「誘惑になるから」と正直に説明したら、最終的に納得してくれた。以降、彼女は袖のある服を着るようになった。ハレルヤ。

 要は、「誘惑を避ける自分スゴイ」という自慢話です。その裏で女性に我慢を強いている点を無視しているのですが。

 これと同じような話をあちこちの教会で聞きます。簡単に言うと、女性の服装を制限して男性を誘惑から守れ、という話です。男性牧師が講壇の上からそういう「命令」を発する教会もあります。

 もちろん男性側の気持ちも分からないではありません。真面目に神様に仕えたい、誘惑に陥りたくない、まして罪を犯したくない、それに女性だって露出の少ない服装にした方が「安全」なはずだろう、というような考えなのでしょう。
 それはそれで正論のように聞こえます。

 しかし女性の権利を意図的に無視している点に注目してください。「男性は守られるべき」「そのためなら女性は犠牲になるべき」と当然のように考えてしまっているのです。女性の立場を一切考慮していません。しかもその状態があまりにも当たり前すぎて(日本の強固な男尊女卑社会の故でしょう)、そのことにさえ気づかなくなっているのです。

 まるで「女性は男性に仕えるために存在する」とでも考えているかのようです。その結果として、厨房の奉仕は女性のもの、お茶出しは女性がするもの、女性が動かないといつまでたってもケーキが取り分けられない、みたいな不文律が教会で出来上がっているのです。

 またそのような価値観を、女性が女性に押し付ける場合もあります。彼女らは露出の多い服装の女性を「ふしだら」と言い、ファッション性の高い服装の女性を「場違い」と言うのです。

 もちろん礼拝は「典礼」ですから、あんまり浮かれた服装なのもどうかと思います。また教会は一種のコミュニティですから、そこに加わる以上、そこの文化や考え方に沿うのも必要です。なんでも好き勝手にできる、というわけでもありません。

 しかし同時に言えるのは、女性は男性に仕えるために存在しているのではない、ということです。
 創世記を引っ張り出して「女性は男性の助け手として造られた」と主張する人もいるでしょうけれど、だったら男性だって女性を助け、守るべきです(パウロの書簡をよく読みましょう)。なぜ女性だけが一方的に犠牲になって、タンクトップを諦めなければならないのでしょうか。

 男性の「情欲」の問題は、男性側の問題です。女性の責任ではありません。なのになぜ女性にだけ変化を求めるのでしょうか。男性は男性で、女性に迷惑をかけない形で、解決策を探してください。

 それに「情欲」の問題について、イエスがちょっと遠まわしに、でもとっても効果的な解決方法を教えてくれているのを、皆さんご存知ですか?
 マタイによる福音書5章29節に書いてありますから、どうぞじっくり読んでみてください。

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