今『キマジメくんのクリスチャン生活』では、「50時間の祈り」というイベントが進行中です。
50時間ぶっ続けで「霊的礼拝」をする、というクリスチャン版「24時間耐久レース」みたいなものですね。狂気の沙汰だと思われるかもしれませんが、現実の話です。残念ながら。
もちろんごく一部の教会の話ですが。
これは「ダビデの幕屋の礼拝」の亜種みたいなものです。
「ダビデの幕屋の礼拝」も24時間365日ぶっ続けの礼拝を売り(?)にしています。
でもこれ、文字通り24時間365日拘束されるものではありません。たくさんの「礼拝チーム」があって、各チーム2時間くらいずつ、分担しているのですね。だから礼拝としては24時間続くのですが、人はどんどん入れ替わっています。
「50時間の祈り」も基本的にそれと同じです。
奉仕者は自分の担当時間にだけ舞台に上がりますが、あとは自由です。食べたり飲んだり眠ったり、時間があるなら家に帰ったり。そういうのが全体として50時間続きます。だから実のところ、24時間耐久レースのような過酷さはありません。そこまで狂気の沙汰ではないと。あ、それでも十分狂気ですか(笑)。
ではなぜ「50時間の祈り」をするかと言うと、「霊的打ち破り」とか、「霊的刷新」とか、「霊的大勝利」とか、まあそういうものの為です。私が実際に見たもので言うと、「日本を背後で縛る悪霊たちを打ち破るため」でした。
そんなアホな、と思われるでしょうが、やっている人たちは大真面目です。
実を言うと、私は「50時間の祈り」に参加したことがあります。
そのときの経験を『キマジメくん~』で生かしていますから、そのリアルなところは同小説を読んでいただければと思います。
実際に私が参加したのは、日本人と台湾人とアメリカ人とが入り混じった、なかなか大規模なものでした。教会に入りきらなくて、近くのライブハウスを3日間借り切りました。会場は日本語と中国語と英語が入り混じったカオス(笑)。
ちなみに通訳は、英語の講師がしゃべったものを、日本人が通訳し、続いて台湾人が通訳する、という形でした。時間が3倍かかるから、遅い遅い(笑)。
それはさておき、50時間という長丁場のためか、「主の臨在に憩う」という考え方がありました。
「この世」は悪霊の激しい攻撃に晒されているけれど、「ダビデの幕屋の礼拝」を行う場所は、完全に守られている。悪霊たちはこれを見つけ出すことができない。だから普段「霊的」に戦っているクリスチャンは、ここでゆっくり休みましょう、という考え方ですね。
それで具体的にどうするかと言うと、みんなして「寝る」わけです。
台湾の一部の教会群では、「ダビデの幕屋の礼拝」が盛んなようです(私の教会も台湾から「ダビデの幕屋の礼拝」を輸入しました)。だからそこにいた台湾のクリスチャンたちは「50時間の祈り」もやり慣れていたようです。彼らは始まると同時に寝袋とかタオルケットとか持ち出して、豪快に寝はじめました。牧師なんか大の字になってイビキをかいていましたからね。どんだけ「憩う」んだって(笑)。
☆ ☆ ☆
それはさておき、「50時間の祈り」を経て、何が変わったのでしょうか。「霊的打ち破り」が起こり、日本の「霊的勢力図」に何か変化があったのでしょうか。そして現実世界に、それとわかるような変化が起きたのでしょうか。何も起こっていないように見えますが。
でも真面目にやっている人たちは、こんなふうに言うでしょう。
「霊の領域ではとんでもない変化が起こっている。まだそれが見えないだけだ」
じゃあ、いつになったら見えるのでしょうか?
台湾の人たちは「ダビデの幕屋の礼拝」をずいぶん長くやってきたはずですが、台湾の現実世界には特段変化は起こっていないようです。もしかしたら、こんなふうに言うかもしれません。
「霊的な働きは5年や10年で実を結ぶものではない。20年後、30年後、40年後、もしかしたら私たちの子供たちの世代までかかるかもしれない」
なるほど、時間がかかる、ということですね。
であるなら、喫緊の課題である「日本を背後で縛る悪霊たち」は、どうなるのでしょう。40年以上放っておいて、大丈夫なのでしょうか。逆にそれくらい放っておいても大丈夫なら、そもそも退治しなくてもいいのでは?
するとたぶん、こんな答えが返ってくると思います。
「私たちにもわからないことはある。神の御旨は深く、計り知れないのだ」
なるほど。
「ダビデの幕屋の礼拝」とか「50時間の祈り」とか、細かく具体的に「示されている」わりに、その結果については「何も示されない」のですね。
だとしたら、ずいぶんと無責任な「神様」ではないでしょうか。
あるいは、そこまで人間に戦わせておいて、結果を出すのに何十年もかかるのなら、とんでもなく軟弱な「神様」ではないでしょうか。神様は全知全能のはずですが? こんなちっぽけな島国を縛る悪霊を追い出すのに、何十年もかかるのでしょうか?
☆ ☆ ☆
何の実も結ばない「ダビデの幕屋」とか「50時間」とか「霊の戦い」とかに時間を費やすくらいなら、駅とか道端とかで、困っている人にたった一回でも声を掛ける方が、はるかに有益だと思います。それが隣人愛ではないでしょうか。
さて、「ダビデの幕屋の礼拝」や「50時間の祈り」の、本当の目的は何なのでしょう。
建前でなく、本当の本当の目的は?
少なくとも、「霊的打ち破り」ではありません。
じゃあ何でしょう。お金でしょうか。でもお金も儲かりません。
私が思うに、それは「プライド」のためです。「自己満足」のためです。自分たちが盛り上がって、何かを成し遂げた気になって、満足するためです。でもそんなの神様と関係ないし、キリスト教とも関係ありませんよね。
それでもまだ、ダビデの幕屋の礼拝とかやりますか?
>私が思うに、それは「プライド」のためです。「自己満足」のためです。自分たちが盛り上がって、何かを成し遂げた気になって、満足するためです。
返信削除まさにその通りだと思います。気持ちいいくらいのぶった切りですね。謙遜を装ったプライドの塊集団。哀れですね。
Fuck
ぶった切り過ぎたかと思いましたが、ありがとうございます。
削除おっしゃる通り、謙遜を装う姿がものすごく痛々しいですよね。
しかし、、まあこれだけのコストと一人ひとりの信者の個人的人生設計を搾取した牧師やリーダー的存在のある人はこういう大規模イベントをやり続けた末にもし全部なんらかの形で破産したらどう責任をとるつもりでしょうかねぇ?
返信削除牧師に従う信者たちは現時点では楽しく意識してやってるつもりでしょうけど、無意識の側面からみればなんだか破壊と忘却と暴力の念のエネルギーを溜め込んでいるようなかなり怖いですね、、、。
私の教会の場合で言うと、「皆で手を繋いで、そうとは知らずに破滅に向かっていた」というのがぴったりくるかと思います。私の教会は最終的に破綻したのですが、それは「なるべくしてなった」と今は思っています。
削除何かを成し遂げたいのでしょうが、「私たちの教会って他のクリスチャン達と違ってすごい」が見えるので(名声欲)聞いていて滑稽です。
削除私たちが祈ったから、断食をしたから、私の教会が霊的打ち破りをしたからなどなど。。何でもいいんです、彼らが注目を浴びて「すごーい」といわれれば。牧師はあの教会からリバイバルがっていわれたいのですから。
「自分たちは役に立たないしもべです」とか言いながら、一方で「この教会からリバイバルが起こる!」とか言っていて、ダブルスタンダードも甚だしいと思います。結局は目立ちたい、褒められたい、認められたい、という欲求を捨てられないのでしょうね。
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