クリスチャンは「霊的成長」をするのですか?

2018年6月20日水曜日

教会生活あれこれ

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 前回の記事「クリスチャンは『古い人』でなく『新しい人』なのですか?」の続きみたいになりますが、「クリスチャンの成長」について考えてみたいと思います。

 私の牧師は創世記1章28節の神の言葉「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」を引用して、「だからクリスチャンは成長しなければならない」と主張していましたね。「人口増加」と「個人の成長」が論理的に繋がっていないと思うのですが、当時は「そうなのか」と納得していました。だから私はクリスチャンとしての成長、とりわけ「霊的成長」を意識していました。

 でもよく考えてみると、「霊的成長」というのは曖昧な表現ですね。
 霊とは何か? どうやったら成長するのか? 成長したことが、どうしたらわかるのか?

 一つ実例を出してみましょう。
  教会に来たばかりの若者、Aさんがいました。
 Aさんは元気で明るい性格です。でも粗暴なところがあり、年下の子たちをからかったり、小突いたりしていました。牧師にも時々反抗的な態度を取っていました。礼拝にも集中できず、スマホを見たり居眠りしたりしていましたね。簡単に言うと、問題児。

 でも1、2年後、Aさんは進路のことで悩むようになりました。親との関係も良くなかったようです。それで牧師や先輩信徒に相談したり、祈ってもらったりするようになりました。同時に、それまでの明るさや粗暴さは見られなくなりました。むしろ礼拝で真剣に賛美したり、説教を聞いたりするようになりました。ものすごい変化でしたね。

 それを見た牧師が一言。
うん、Aさんも霊的に成長したね

  でもそれから数か月後、Aさんは無事に進路が決まりました。するとどうでしょう。Aさんにまた天真爛漫な明るさが戻ってきて、またバカなことをしたり、子どもたちを乱暴に扱ったりするようになりました。さすがに牧師や先輩信徒には(いろいろお世話になったので)頭が上がらない様子でしたが、それ以外はほとんど以前のままです。あれ、霊的に成長したんじゃなかったっけ?

 要は、進路のことで悩んでいたから、一時的におとなしくなっただけ、という気がします。
 そういう一時的な変化を「霊的成長だ」と言い切った牧師は、本当に「霊的」なことが判断できるのでしょうか。
 これ、皆さんだったらどう考えます?

☆ ☆ ☆

 私に言わせれば、こういうのは「霊的」とか「内的」とか言いながら、結局は「見えるところ」を判断しているだけです。あるいは「感じる」ところを判断しているだけです。
 そしてこの「感じる」というのは、「自分は◯◯だと感じる」というあくまで物理的・心的感覚であって、「霊的感覚」とは違うのです。

「聖書を読んで知識を得た」
「本を読んで、ある聖書解釈について理解した」
「苦しい目に遭って、他者の痛みをはじめて知った」
 それぞれ素晴らしい「成長」」でしょう。でも「霊的」ではありません。未信者の方々もそういう「成長」を経験するのですから。

 結論として、「霊的成長」は一部の教派の「方便」だと私は考えます。良く言えば、信徒の信仰レベルを評価する評価軸の1つです。非常に曖昧な評価軸ですけれども。

 毎朝ディボーションしたり、毎日1時間以上祈ったり、毎週欠かさず礼拝したり、できる以上の献金をしたり、身を粉にして奉仕したりするのは、「クリスチャンとしての成長」に寄与するかもしれません。それらは悪いことではありません。でもかと言って、それで「霊的高次元」に上昇できるわけでもなく、見えないものが見えるようになるわけでもありません。前回の記事の表現で言えば、「新しい人」になれるわけでもありません。

「霊的成長」が強調される教会の皆さんには、よくよく考えていただきたいと思いますね。

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