前回の記事「クリスチャンは『古い人』でなく『新しい人』なのですか?」の続きみたいになりますが、「クリスチャンの成長」について考えてみたいと思います。
私の牧師は創世記1章28節の神の言葉「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」を引用して、「だからクリスチャンは成長しなければならない」と主張していましたね。「人口増加」と「個人の成長」が論理的に繋がっていないと思うのですが、当時は「そうなのか」と納得していました。だから私はクリスチャンとしての成長、とりわけ「霊的成長」を意識していました。
でもよく考えてみると、「霊的成長」というのは曖昧な表現ですね。
霊とは何か? どうやったら成長するのか? 成長したことが、どうしたらわかるのか?
一つ実例を出してみましょう。
教会に来たばかりの若者、Aさんがいました。
Aさんは元気で明るい性格です。でも粗暴なところがあり、年下の子たちをからかったり、小突いたりしていました。牧師にも時々反抗的な態度を取っていました。礼拝にも集中できず、スマホを見たり居眠りしたりしていましたね。簡単に言うと、問題児。
でも1、2年後、Aさんは進路のことで悩むようになりました。親との関係も良くなかったようです。それで牧師や先輩信徒に相談したり、祈ってもらったりするようになりました。同時に、それまでの明るさや粗暴さは見られなくなりました。むしろ礼拝で真剣に賛美したり、説教を聞いたりするようになりました。ものすごい変化でしたね。
それを見た牧師が一言。
「うん、Aさんも霊的に成長したね」
でもそれから数か月後、Aさんは無事に進路が決まりました。するとどうでしょう。Aさんにまた天真爛漫な明るさが戻ってきて、またバカなことをしたり、子どもたちを乱暴に扱ったりするようになりました。さすがに牧師や先輩信徒には(いろいろお世話になったので)頭が上がらない様子でしたが、それ以外はほとんど以前のままです。あれ、霊的に成長したんじゃなかったっけ?
要は、進路のことで悩んでいたから、一時的におとなしくなっただけ、という気がします。
そういう一時的な変化を「霊的成長だ」と言い切った牧師は、本当に「霊的」なことが判断できるのでしょうか。
これ、皆さんだったらどう考えます?
☆ ☆ ☆
私に言わせれば、こういうのは「霊的」とか「内的」とか言いながら、結局は「見えるところ」を判断しているだけです。あるいは「感じる」ところを判断しているだけです。
そしてこの「感じる」というのは、「自分は◯◯だと感じる」というあくまで物理的・心的感覚であって、「霊的感覚」とは違うのです。
「聖書を読んで知識を得た」
「本を読んで、ある聖書解釈について理解した」
「苦しい目に遭って、他者の痛みをはじめて知った」
それぞれ素晴らしい「成長」」でしょう。でも「霊的」ではありません。未信者の方々もそういう「成長」を経験するのですから。
結論として、「霊的成長」は一部の教派の「方便」だと私は考えます。良く言えば、信徒の信仰レベルを評価する評価軸の1つです。非常に曖昧な評価軸ですけれども。
毎朝ディボーションしたり、毎日1時間以上祈ったり、毎週欠かさず礼拝したり、できる以上の献金をしたり、身を粉にして奉仕したりするのは、「クリスチャンとしての成長」に寄与するかもしれません。それらは悪いことではありません。でもかと言って、それで「霊的高次元」に上昇できるわけでもなく、見えないものが見えるようになるわけでもありません。前回の記事の表現で言えば、「新しい人」になれるわけでもありません。
「霊的成長」が強調される教会の皆さんには、よくよく考えていただきたいと思いますね。
先日、信仰養成講座なるものがあり参加しました。神父さんによる講話、集会用テキストによる学習の後、グループ討論がありました。分かち合いの際に、ある若い信徒さんが、いかに成長していないか反省の弁を繰り広げました。
返信削除私は、成長し続けたら、私くらいの年になれば**聖人と呼ばれますよ。人間は多少成長するだけで十分なんですよ。と言いましたが・・・
私は、ぼちぼちやる、頑張らないことをモットーとしています、というようなことを話しましたが・・・
いかに成長していないか、と悩む若者がいるのですね。「成長しなければ」というプレッシャーがあるのでしょうか。その人が「成長」をどのように定義しているのかわかりませんが、その「反省の弁」が今後の前進につながればいいとは思いますね。
削除あくまで私個人の考えですが、成長とは「気づき」みたいなものだと思います。「今まで気づかなかったことに気づいた。あーこれからはこうしよう」みたいな感じで、それまでと行動が変わるのが、成長なのではないかと。
その意味では、いろいろなことに触れて、いろいろな体験をして、いろいろな人と話すのが、成長につながるのではないでしょうか。
知人が2年くらい在籍した教会(私も数回礼拝に参加した経験があります)で起こった事です。 牧師が自分の霊的成長を最高を10として今自分がどのくらいの数値にいるか考えて挙手して欲しいと信徒に礼拝中にお願いされて役員をやってる双子の姉妹がそろって”8”で挙手したそうです。 つまり霊的成長は自分で判断できるということらしいです。別の日にこの双子の一人が教会の中のある姉妹の結婚が決まったことを発表してその後に”自分がアラフォーでまだ独身なのは結婚するにはあまりにも清い人間だからです”とコメント。でも10年後に風の噂で彼女が結婚したと聞きました。 ”あら!じゃあ清くない人間になってしまったんですねえ”と思いました。霊的グレードも下がったという事でしょうか? この教会では霊的グレードは自己申告で兄弟姉妹がつべこべ言うことではないらしいです。
返信削除霊的レベル(?)を自己申告というのもすごいですね。しかもそれで「8」とか自己評価できてしまうとは。相当自信があるのでしょうか。
削除でも自分で自分を「清い人間」と言ってしまえるところを見ると、人格的レベルは低そうですね(笑)。
霊的レベルと人格的レベルとどちらが大切でしょう。私は人格の方だと思いますけどね。
鋭い指摘ですね。クリスチャンは霊的成長という言葉を簡単に使いますが、本当はよく分かっていないのかもしれません。
返信削除メンタリングを提唱し活動しているある組織のウェブサイトを見ると成長という言葉が並んでいます。
曰く、
「メンタリングとは、メンターが個人的な関係を通して、メンティーの霊的”成長”を助け・・・」
「キリストの弟子としてさらに”成長”する事を目的とし・・・」
「どちら側の”成長”にもつながりますが、メンタリングの本来の目的は被育成者の”成長”のための・・・」
「実を結ぶクリスチャンとして”成長”していくことです・・・」
そして、”霊的成長”とは、「決断後の確信、本当の意味での福音に対する理解、知識、生活態度においての成長、神様とのコミュニケーション、クリスチャンとしての責任、福音伝道、また弟子訓練の提供・・・」だと書いています。
すべて表面的、感覚的な尺度です。Aさんは、教会歴10年で、奉仕に熱心で、聖書の知識があるからメンターの資格があるのでしょうか。Bさんは、信仰告白してからまだ6ヵ月で、礼拝も月一回しか来ていないからメンティーだと決め付けるのでしょうか。神の目から見たら本当は違うかもしれません。
このことからも、別の記事でfuminaruさんも書かれているように、メンタリングという言葉に拠るシステムではなく、自然発生的な個人個人の繋がりで十分であり、その方が健全だと思います。
ありがとうございます。
削除おっしゃる通り、「霊的成長」という言葉が氾濫していますよね。
でもどれも「霊的成長」について抽象的・観念的な説明しかしておらず、結局何なのかわからないままになっていると思います。でも正直に「わからない」と言えない人が多いのでしょうね。皆わかったつもりになって、わかったふうなことを言っていますから。
個人の評価についても、「立派な祈りができるから」とか「信仰歴が長いから」とか「年配だから」とか、そういう表面的な尺度で測られていると思います。なのにそれを「霊的尺度」と言う。
ここまでくると、単に「霊的」という言葉を使いたいだけでは? と勘ぐってしまいます。