他にも「新しい革袋」とか、「御霊によって生まれ変わる」とか、似たよな表現がいくつかあります。
要は、「古い人」と「新しい人」の概念がある、ということだと思います。
ではクリスチャンの皆さんは、「新しい人」なのでしょうか。
あるいは「新しい人」になりつつある「古い人」なのでしょうか。
それとも実は「古い人」のままなのでしょうか。
でもそもそもの問題として、それはいったい誰がどうやって、判定するんでしょうね。自分? 他人? 牧師?
それともクリスチャンになったら自動的に「新しい人」に変わるから、判定は必要ない、という主張があるかもしれませんが。
ヒントになるかどうかわかりませんが、今話題のクリスチャントゥデイのツィートに、こんなのがありました。
「古い人」の本音は肉の欲であり、「新しい人」の本音は主の教えです。
これが事実なら、本音を見ればその人が「古い人」か「新しい人」かわかる、ということになります。
でも他人の本音を探るのは難しいですね。適当にごまかせますから。自分のならわかりますが(笑)。
それにクリスチャンだからって、24時間365日「本音=主の教え」な人なんているんでしょうか。
たとえば「あ、トイレに行かないと」と思うのは誰にでもあるはずで、それは切迫すればするほど究極の本音(笑)になるはずですが、排泄の欲求って、主の教えじゃないですよね。仏教徒にもヒンズー教徒にも無神論者にも、同様にあるはずです。
ということは、本音が主の教えになっていない時があるということです。
もちろんトイレ云々の話は冗談ですよ(笑)。
でも真面目な話、この「古い人」と「新しい人」の概念は、クリスチャンにとって祝福というより、呪いじゃないかと私は思います。
というのは、「新しい人」でいないといけない、というプレッシャーがあるからです。
教会の中を見回してみて下さい。教会生活が長い人ほど、品行方正そうに、敬虔そうに、愛深そうに、信仰に篤そうに見えませんか。でもその姿は、本当に彼らの本音からくるものなのでしょうか。「先輩なんだから模範的でいないと」というプレッシャーがあるのではないでしょうか。
最近、知り合いのクリスチャンがこんな話をしてくれました。
「教会で真面目に奉仕している人が、こっそりタバコを吸っているのを見てしまった」
その人の教会は飲酒喫煙厳禁だそうです。
実は私も同じような経験をしたことがあります。教会で真面目にお祈りして奉仕している人が、コンビニの前でプカプカとタバコを吸っているのを、偶然見てしまったのです。気付かない振りして遠ざかりましたが(私の教会も飲酒喫煙はNGでした)。
飲酒喫煙の是非はともかく、そこには「新しい人っぽく見せたい」という願望なりプレッシャーなりがあると思います。でなければ、堂々と吸うはずでしょう。
ということは、本質的には「古い人」なのではないでしょうか(それを責めるつもりは全然ありません)。
こういう例は他にも沢山あります。不倫に走る牧師、教会の金を横領する牧師、暴力に走る牧師・・・。
私の印象では、牧師歴が長い人ほどそれらの問題に陥っています。
彼らは本当に「新しい人」だったのでしょうか。
あるいは「新しい人」だったけれど、どこかで「古い人」に逆戻りしてしまったのでしょうか。
それともずっと「古い人」だったのでしょうか。
誤解を恐れず言わせてもらうと、教会は「新しい人」たちの集まりでなく、「新しい人っぽく見せたい人」たちの集まりです。
もちろん全員がそうだと言うつもりはありません。でも特に「新しい人」を強調する教会ほど、その傾向が強いと思います。
だからみんなして、「新しい人」の振りをするのです。教会に入るなり「新しい人」という仮面を被り、それらしく振舞い、家に帰るとその仮面を脱ぐのです。その意味では、教会は仮面舞踏会(笑)。
それは本音というより嘘だと私は思います。だから教会で疲れるのではないでしょうか。
本当に本音で生きるなら、教会でこそ「タバコ吸いたいの我慢してます」とか、「実はタバコ吸ってます」とか、「聖書よりマンガが好きです」とか、そういう正直なところを言うべきではないかと思います。「古い人」全開なのですが(笑)。
でも真面目な話、本当に本当に「新しい人」になりたいのなら、その第一歩は、自分の中の「古い人」をそのまま認めることだと私は思います。隠すのではなくて。
追記)
執筆に集中していて知りませんでしたが、大阪北部で震度6弱の地震があり、死傷者が出ているとのこと、心よりお見舞い申し上げます。
プロテスタント教会によっては禁欲を売り物にしている教会がありまして、私の知り合いのモルモン教徒の方などは、禁酒禁煙ノンカフェインでコーヒーを進めてもカフェインはだめだと言っております。モルモン教徒はカフェインはOKだったと思いますが。その点、カトリックは禁酒禁煙ではありませんし、聖書よりマンガが好きだという人はいっぱいおりますね。某財務省の洗礼名フランシスコ某大臣などは、俺はミサよりバーの方が好きだからミサにはいかないと言ってはばからないので、有名ですね。
返信削除真面目な人もおれば、いい加減な人もいる、とんでもない人もいる教会が健全な教会ではないでしょうか。まあ、神父さんを見ていても、ワインが大好き、タバコが大好きなどというのは普通のことですね。もっとも修道会系の神父さんは超真面目な方が多く、禁酒禁煙は当たり前ですね。
真面目な人やいい加減な人やとんでもない人がいるのが健全な教会、というのはその通りだと思いました。おかしな教会ほど「ある一定の人たち」しかいられなくなっていますから。
削除カトリックの方々のように、聖書よりマンガが好き、ミサよりバーが好き、と公言するのは全然問題ないと思います。黙って禁欲生活に努める人たちも問題ありません。問題は陰で好き勝手にやっているのに教会では「自分は新しくされました」「この世の欲は去りました」などとうそぶく人たちのことですね。
「古い人」とは、救い主がだれかまだ自分の中で定まっていない人で、
返信削除旧約時代の人がそうです
それに「対して」(聖書の話の骨組みの背景は、あくまでイエス様が来られる前、来られた後、という構図をしっかり大前提としておくことが重要です
自分自身の人生を聖書と綱引きさせるならばあらゆる面で害悪しか生みませんよ)
新しい人とは、「イエスは救い主である」と自分の腹に決めている人ですよ
品方向性だとか敬虔だとか、そんなものはぜんぶわきに放り投げてしまうべきです
「それ」は金持ちの財産のようなもので
イエス様は「そんなもの、捨てちまえ」とおっしゃっている・・・
と私は勝手に思っています。
失礼ですが、抽象的な表現でよくわからないですね。頭が悪いものですみません。
削除・「自分自身の人生を聖書と綱引きさせる」というのは具体的にどんなことなんですか?
・「イエスは救い主であると自分の腹に決める」というのは具体的にどんなことですか?
べつに回答していただかなくても結構ですが。