ヨブの「苦しみの意味」は?

2018年6月12日火曜日

雑記

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「理不尽に苦しめられた聖書中の人物」というと、イエス・キリストの他にヨブがいますね。
 旧約聖書の「ヨブ記」の主人公の、ヨブです。 
 彼がどんなに苦しめられたかは、このブログを続けて読んで下さっている方は十分ご存知かと思います。が、ちょっと内容を振り返ってみたいと思います(私のツッコミ付きです)。

 昔々、ヨブという人がいました。大金持ちの有力者で、10人の子供に恵まれ、かつ信仰を固く保つ、敬虔な人でした。神も彼を「義人」だと評しました(ここ重要なポイントです)。

 しかしある日、神のところにサタンがイチャモンを付けに来ます。
「財産を奪われれば、ヨブはあなたを呪うでしょう」
 じゃあ試してみよう、ということになります(それも乱暴な話ですが笑)。
 神の許可を得て、サタンはヨブの持ち物を全て奪い、破産させます。そして子供たちも全員殺してしまいます。ヨブは悲嘆に暮れます。が、それでも信仰を告白します。
主は与え、主は取られる

 サタンはまた、神に言います。
「自分の命が脅かされれば、ヨブは今度こそあなたを呪うでしょう」
 これにも神の許可が出てしまいます(なんで?)。それでヨブは、全身を皮膚病に犯されてしまいます。
 彼は見るも無残な姿になり、ホームレスみたいに地面に横たわって、陶器の欠片で身体を掻くようになります。が、ヨブはなおも信仰を保ちます。
神から幸いを受けるのだから、災いも受けなければならない

 これが「神の試練」なのでしょうか。神が「義人」だと評したはずなのに、あまりに理不尽ではないでしょうか。

 それはさておき、灰に横たわるヨブのもとに、3人の友人たちがやって来ます。
 そしてヨブと長い論戦を交わします。友人たちの主張はこんな感じです。
「こんな目に遭ったのは、おまえが何か罪を犯したからだ。早く罪を認めてしまえ」
 それに対してヨブは「罪など犯していない」と反論します。

 結論から書きますと、この3人の主張は、神に退けられます。そしてヨブの方が「正しい」とされます。つまりヨブに罪はなかった、ということですね。
 ん? ちょっと待って下さい。罪がなかったなら、なぜヨブはこんな苦しみに遭わなければならなかったのでしょう?

 終盤、ついに「神ご自身」が現れます。つむじ風の中から。
 これでやっと、その答えがわかるのでしょうか? ヨブも読者も期待します。

 しかし、神は答えを語られません。

 神が話すのは、要約するとこんな感じです。
わたしはすごいことが沢山できるんだぞ。お前にはできるのか?(できないだろ)

 神の偉大さを一方的に押し付けられた、という感じです。ヨブはグウの音も出なくなるのですが、私はこのくだりにちょっと違和感を覚えます。
 というのは、突然の悲劇に見舞われ、散々苦しめられたのに、その理由が全く明かされないからです。やっと神が出てきたと思ったら、(失礼な言い方ですが)一方的な自慢話だけ。答えは結局、謎のまま。何じゃこりゃ、と私なら思います。

 とはいえ、ヨブにはハッピーエンドが用意されています。財産がもとの2倍になり、子供がまた10人できて、孫の孫まで見ます。そして天寿を全うした、と結ばれています。良心的な読者なら、これで良しとすべきかもしれません。

 でも私は、どうもスッキリしません。
 結局、サタンの最初の提案は、どう処理されたのでしょうか(サタンは冒頭にしか登場しません)。そして神は、結局のところ何がしたかったのでしょうか。サタンにそそのかされてヨブに「試練」を与えて、ヨブがそれをクリアするのを見て満足した、ということでしょうか。だとしたら、なんと日和見的かつ、サディスティックな扱いでしょう。

☆ ☆ ☆

 私がいた聖霊派教会では、ヨブの最大の(そして唯一の)問題は、「自己義(ジコギ)」だとされていました。
 ヨブにはたしかに罪がなかった。けれど、彼は神より自分のことを「正しい」としていた。「神の義」より、「自分の義」を優先していた。それが神の前には罪であり、それゆえ彼は罰せられたのだ、と。

 でも冒頭で神がヨブを「義人」だと評しているのですから、この理屈はそもそも成り立たないのではないでしょうか。

 あるいはこんな意見もあるでしょう。
「ヨブは試練の中で『自己義』に陥ってしまったのだ」
 でも試練の最中に「自己義」に陥ったなら、「自己義ゆえに罰せられた」という理屈がそもそも成立しません。「自己義」ゆえ罰せられたのに、途中から「自己義」に陥るなんて不可能だからです。

 ヨブ記はハッピーエンドで終わるのですが、これはあくまで「神の試練」という位置付けだからでしょう。
「試練(Trial)」であるならば、どうしても「ここまで」という終わりが必要ですし、その達成度に従って「ご褒美」がなければなりませんから。「終わり」も「ご褒美」もなかったとしたら、それは「試練」ではありません。

 では私たち(クリスチャン)が人生の中で受ける「苦しみ」は、「神の試練」なのか?
 違いますね。なぜならどんなに苦しみに耐え、難しい問題を乗り越えたって、幸せにならないことだってあるからです。あるいは苦しみがいつまでたっても終わらないこともあります。

 苦しみに際して、ある人は「これは試練だ」と思うかもしれません。
 またある人は「神が共に苦しんでおられる」と思うかもしれません。
 またある人は「神なんていない。これは自分の問題だ」と思うかもしれません。
 ヨブはどれだったでしょうか。私はどれでもない気がします。

→6月10日発行のメルマガにて、さらに詳しく書いています

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