「理不尽に苦しめられた聖書中の人物」というと、イエス・キリストの他にヨブがいますね。
旧約聖書の「ヨブ記」の主人公の、ヨブです。
彼がどんなに苦しめられたかは、このブログを続けて読んで下さっている方は十分ご存知かと思います。が、ちょっと内容を振り返ってみたいと思います(私のツッコミ付きです)。
昔々、ヨブという人がいました。大金持ちの有力者で、10人の子供に恵まれ、かつ信仰を固く保つ、敬虔な人でした。神も彼を「義人」だと評しました(ここ重要なポイントです)。
しかしある日、神のところにサタンがイチャモンを付けに来ます。
「財産を奪われれば、ヨブはあなたを呪うでしょう」
じゃあ試してみよう、ということになります(それも乱暴な話ですが笑)。
神の許可を得て、サタンはヨブの持ち物を全て奪い、破産させます。そして子供たちも全員殺してしまいます。ヨブは悲嘆に暮れます。が、それでも信仰を告白します。
「主は与え、主は取られる」
サタンはまた、神に言います。
「自分の命が脅かされれば、ヨブは今度こそあなたを呪うでしょう」
これにも神の許可が出てしまいます(なんで?)。それでヨブは、全身を皮膚病に犯されてしまいます。
彼は見るも無残な姿になり、ホームレスみたいに地面に横たわって、陶器の欠片で身体を掻くようになります。が、ヨブはなおも信仰を保ちます。
「神から幸いを受けるのだから、災いも受けなければならない」
これが「神の試練」なのでしょうか。神が「義人」だと評したはずなのに、あまりに理不尽ではないでしょうか。
それはさておき、灰に横たわるヨブのもとに、3人の友人たちがやって来ます。
そしてヨブと長い論戦を交わします。友人たちの主張はこんな感じです。
「こんな目に遭ったのは、おまえが何か罪を犯したからだ。早く罪を認めてしまえ」
それに対してヨブは「罪など犯していない」と反論します。
結論から書きますと、この3人の主張は、神に退けられます。そしてヨブの方が「正しい」とされます。つまりヨブに罪はなかった、ということですね。
ん? ちょっと待って下さい。罪がなかったなら、なぜヨブはこんな苦しみに遭わなければならなかったのでしょう?
終盤、ついに「神ご自身」が現れます。つむじ風の中から。
これでやっと、その答えがわかるのでしょうか? ヨブも読者も期待します。
しかし、神は答えを語られません。
神が話すのは、要約するとこんな感じです。
「わたしはすごいことが沢山できるんだぞ。お前にはできるのか?(できないだろ)」
神の偉大さを一方的に押し付けられた、という感じです。ヨブはグウの音も出なくなるのですが、私はこのくだりにちょっと違和感を覚えます。
というのは、突然の悲劇に見舞われ、散々苦しめられたのに、その理由が全く明かされないからです。やっと神が出てきたと思ったら、(失礼な言い方ですが)一方的な自慢話だけ。答えは結局、謎のまま。何じゃこりゃ、と私なら思います。
とはいえ、ヨブにはハッピーエンドが用意されています。財産がもとの2倍になり、子供がまた10人できて、孫の孫まで見ます。そして天寿を全うした、と結ばれています。良心的な読者なら、これで良しとすべきかもしれません。
でも私は、どうもスッキリしません。
結局、サタンの最初の提案は、どう処理されたのでしょうか(サタンは冒頭にしか登場しません)。そして神は、結局のところ何がしたかったのでしょうか。サタンにそそのかされてヨブに「試練」を与えて、ヨブがそれをクリアするのを見て満足した、ということでしょうか。だとしたら、なんと日和見的かつ、サディスティックな扱いでしょう。
☆ ☆ ☆
私がいた聖霊派教会では、ヨブの最大の(そして唯一の)問題は、「自己義(ジコギ)」だとされていました。
ヨブにはたしかに罪がなかった。けれど、彼は神より自分のことを「正しい」としていた。「神の義」より、「自分の義」を優先していた。それが神の前には罪であり、それゆえ彼は罰せられたのだ、と。
でも冒頭で神がヨブを「義人」だと評しているのですから、この理屈はそもそも成り立たないのではないでしょうか。
あるいはこんな意見もあるでしょう。
「ヨブは試練の中で『自己義』に陥ってしまったのだ」
でも試練の最中に「自己義」に陥ったなら、「自己義ゆえに罰せられた」という理屈がそもそも成立しません。「自己義」ゆえ罰せられたのに、途中から「自己義」に陥るなんて不可能だからです。
ヨブ記はハッピーエンドで終わるのですが、これはあくまで「神の試練」という位置付けだからでしょう。
「試練(Trial)」であるならば、どうしても「ここまで」という終わりが必要ですし、その達成度に従って「ご褒美」がなければなりませんから。「終わり」も「ご褒美」もなかったとしたら、それは「試練」ではありません。
では私たち(クリスチャン)が人生の中で受ける「苦しみ」は、「神の試練」なのか?
違いますね。なぜならどんなに苦しみに耐え、難しい問題を乗り越えたって、幸せにならないことだってあるからです。あるいは苦しみがいつまでたっても終わらないこともあります。
苦しみに際して、ある人は「これは試練だ」と思うかもしれません。
またある人は「神が共に苦しんでおられる」と思うかもしれません。
またある人は「神なんていない。これは自分の問題だ」と思うかもしれません。
ヨブはどれだったでしょうか。私はどれでもない気がします。
→6月10日発行のメルマガにて、さらに詳しく書いています。
旧約のヨブ記ですね。旧約はユダヤ教の神であるということを押さえておくことが大切ですね。あえて言えばキリスト教の神ではない。イエスの語る神はユダヤ教が語る神の進化型、発展型である、アガペの神であると言うことを押さえた上で、ヨブ記を読むべきですね。
返信削除ヨブ記も研究者によれば、前半のサタン登場部分と、最後のハッピーエンド部分は後日の付け足しだという説がありますね。とりわけ最後の部分は、ヨブ記の読者の反発が強く付け足さざるを得なかったと言われていますね。
ヨブがユダヤの神のせいで、ひどいめにあう。最後にヨブがユダヤの神に向かって恨み言を言う、それに対してユダヤの神は、誰に何をしようと俺様の勝手でしょうと言って、引導を渡しておしまいというストーリーだったのでしょう。
良い事も、悪い事もすべて神の思し召しである、人間は神に文句を言うなという教えがヨブ記の読み方でしょう。
おっしゃる通り、ヨブ記は旧約の書物であり、ユダヤ教の教典です。キリスト教とは若干異なる「神像」が提示されていると思いますね。
削除そのあたりはメルマガで指摘しているのですが、ブログなのでライトな記事にしています。
悪魔に名指しで神様に「あいつは豊かだから、信仰」持ってるんですよ、
返信削除と指名されたあと、神様がヨブの財産や子どもを失わせる許可を与えたこと。
私は、亡くなった10人の子どもや財産が、
試練後に与えられたものによって、帳消しになるとはとても思えません。
「神様が主権者であり、被創造物にすぎない人間の問いかけに答える義務は無い。
ヨブは、試練を通して神様をより深く理解したのです。あらゆることは善きことにつながる」と、ある福音派の牧師が語っているのを聞いて、府に落ちませんでした。
何をされても、どんな目に遭っても主権者なる神様に感謝します!なんていうのは、盲目的に思えてなりません。
同感です。「主権者なる神の勝手だ」という理屈はわかりますが、あくまで旧約の話だと私は思います。新約のキリストが提示する「神像」は、もっと慈しみに満ちたもののはずです。そして私たちが信じるのはそういう「恵みの神」のはずですね。
削除また百歩ゆずって「何をしようと神の自由」「神の勝手」だとしても、だから神の代弁者なる牧師の言う通りにしなければならない、という牧師独裁の理由にされるのは違うと思います。
ヨブ記の主題は、神の全能と自由にあります。
返信削除ヨブは、全き義人でありながら、度重なる苦難を受けます。ヨブの友人たちは、そのひどいありさまを見て「ヨブは罪を犯したからひどい刑罰を受けているのだ」、「ヨブの苦難は、罪を浄化するための神の試練だ」などと考えます。ところが、ヨブは自身を省みて何ら責められるべきところはありません。そこで、ヨブは神に問いかけます。「神が正義の神ならば、神の義はこの世界のどこにあるのか?世界は不条理に満ちている」と。
そこで、神はつむじ風の中からヨブに語られ、天地創造の過程を見せながら、こう言います「私がこれらのものを創造したとき、あなたはどこにいたのか?私の隣りにでもいたというのか?」と。
もちろん、ヨブはせいぜい数十年生きただけであって、神の働きを最初から最後まで見ていることはできません。ヨブは神に悔い改めます。「私は自分が悟らないことを言い、知らないこと、測りがたいことを述べてしまいました。」
ヨブ記の主題は明白です。人間と神は違う。人間は、自分が神の立場がわかるかのように、神についてあれこれと語るけれども、人間が神について語り、考えることは全て間違っている、ということです。
神が人間に簡単に理解されるなら、それは神ではない。神は人間にとって常にブラックボックスであり続ける。自分が神になったかのように「あの人は義人だ」、「あの人は罪人だ」、「あれは神の祝福だ」、「あれは神の罰だ」と安易に語ることは、神に対する越権行為であって、「無知な言葉で、神の経綸を暗くする者」というわけです。
神の正義と、人間の正義観は一致しない。神の裁きと、人間の苦難は一致しない。神の祝福と、人間の幸福観は一致しない。災難や不幸や罪人から神は義を顕すことがあり、富や繁栄や律法から神は悪を顕すことがある。神の本当の意志や働きは、しかるべき時に神が明らかにするまで、人間は一切判断してはならない。 新約聖書は、神に見捨てられたイエスという義人の苦難、不幸、貧しさこそが人間を救う「神の義」だ、というメッセージではなかったでしょうか?
神が全能で自由ならば、当然人間の知識や理性に拘束されず、聖書のテキストにすら拘束されない。聖書を読んで神のことをわかったつもりになっても、それは「今、生きて働く神」には何ら関わりがない。神は学校で習う数学のようには理解されず、人間にコントロールされることはない。
十戒の第三戒は、「神の御名をみだりに唱えるべからず」でした。神について全部わかっているかのように、何かと神を主語にして語り散らす牧師やクリスチャンは敬虔を装っていても信用してはならない、ということでしょう。
蛇足ですが、私は旧約の神と新約の神は、簡単にはわけられないと思うのです。グノーシス派は、旧約の神を怒りの神、新約の神を愛の神として分けました。 しかし、イエスは、自身の信仰がユダヤの神と伝統の正統な継承であることを公言してはばかりませんでした。悩めるヨブと、十字架に赴くイエスの神は別の神なのでしょうか?
私自身としては、旧約の怒りの神と新約の愛の神の同一性を理解する鍵としては、イザヤやエレミヤのような旧約の預言書にあるのではないかと考えております。
たしかに、旧約の神と新約の神は同一のはずですね。でも旧約と新約をそれぞれ読む限り、まちがいなくそれぞれの神に対して違った印象を持ってしまう、というのが解しがたい矛盾が存在していると思います。そのギャップをどう埋めるか、というのは現代に残る難問の1つでしょうね。
削除ただ私としては、新約の「神像」を基準として考えたいと思います。その方がキリストの教えとの整合性も取れるのではないでしょうか。kametaniさんも別のコメントでおっしゃっていましたが、「旧約は参考程度に読む」というのが、スタンスとしてはシンプルでわかりやすいかと思います。
旧約の「怒りの神」と新約の「愛の神」を、イザヤ書やエレミヤ書を通してどう結びつけてくか、Oshimaさんの解釈を今度ぜひお聞きしたいですね。
ユダヤ教の神とキリスト教の神とイスラム教の神は、同じ神なのかという基本的な問題ですね。全部一神教で、コーランにも旧約と新約の話があり、モーセもキリストも偉大なる予言者だとコーランには書かれています。コーランは世界の名著版、または中公クラシックス版が読みやすいです。
返信削除3人の人物がいて、それぞれが自分の持っているダイアモンドが世界最高のダイアモンドで、自分以外のダイアモンドは世界最高のダイヤではないと主張しているようなものですね。第3者から見れば、どれも同じようなダイアモンドで大した違いはないだろうということになるのでしょうが・・
プロテスタント教会のなかには、ユダヤ教に先祖帰りしようという人たちがいて、ユダヤ教の神をキリスト教の神と同一視して考える、理解する、無理やりくっつけるのはどうかなと思っています。そんなに旧約の神が好きならユダヤ教に改宗したらと言いたいですね。
イエス・キリストを奉じながら、旧約的な怒れる神像を引用し、かつユダヤ文化を取り入れようとする教会がありますね。
削除キリスト教とユダヤ教を混ぜたような、キメラ的宗教だなあと私は見ていますが。
率直な意見で言うと旧約の神様は私にとって少し厳しいお方。キリストが愛のお方。私の中での存在はキリストが旦那でヤウエーが義理父的なイメージ。
返信削除キリストが間に入って私を擁護してくれてどうにかこうにか信仰に立っていられる。あっ、ヨブの話でしたが全ての主権が神にあり、どんな困難な状況の中にいても神が許されている範囲という事を学べる諸説であります。ヨブはそれにふさわしい信仰の持ち主だったというだけ。私のような凡人とは違う信仰の持ち主。それで、聖書の登場人物としてか認められたのではないかなと思ったりします。カルト教会に居たころは「ヨブのような苦しみは私に与えないでください」などとバカバカしい祈りをしたもんだ。選民主義のマインドだったので聖書のとらえ方までおかしかったんだと今更ながら反省。
賛美の歌にも「神様はお父さん、イエス様はお兄さん」という歌詞がありましたから、「仲介してくれる優しいイエス様」みたいなイメージがあると思いますね。
削除「ヨブのような苦しみは与えないでください」という類の祈りも、いろいろありました。
「ヤベツのように祝福してください」
「若くてもエレミヤのように用いてください」
「ヨハネのように愛される弟子としてください」
自意識過剰だろって話なのですが笑
ハハ・・・ウケる。
削除「ヨブのような苦しみは与えないでください」・・・などなど・・・
なんか他の3つも聞いたことあるような、ないような。
ツラノトレーニングスクール教材にヤベツの祈りと称してその中に〇〇〇に名前を入れて100回ヤベツの祈り宣言する教材があったな、確か。
カルト化教会って本土も沖縄も全部共通してることだらけ。
きっと、日本人牧師が韓国のチョーヨンギ式繁栄の神学取り入れたためだと推測する。その第一人者が女はべらせてお金せしめてやってることほぼやくざと一緒。この世界って非難されるべき人を非難するとその系列の信者が
聖句を用いて攻撃してくるのもお決まり。結果、盲信信者の護衛が結局彼らのやった罪をのさばらす。よくできてるなカルトの構図も。
100回祈って宣言するとか、まさに洗脳系のやり方じゃないですか笑
削除遅ればせながら、蛇足の続きを書きますと、クリスチャンは旧約聖書の律法を一字一句行う必要がないことは言うまでもありません。
返信削除クリスチャンは、イエスを正しいと認め、イエスに従い神を愛し、隣人を愛することにおいて律法を満たしている。しかし、これとてエレミヤ書31・31~の預言がイエスにおいて成し遂げられられた、ということを示すものです。
出エジプト記、レビ記、ヨシュア記などだけを見ますと、新約聖書との違いに愕然とするのですが、旧約と新約の間には預言書ありまして、預言者が語るのは神の怒りと刑罰なのでありますが、同時に神の慰めと許しを語るものです。新約聖書が預言書からの引用が多いのは、まさにイエス・キリストにおいて神の和解と許しが到来した、という証言だからです。
イエスが弟子たちに教えた祈りは「御名があがめられますように(直訳は、御名が聖とされますように)」でした。この「御名」とは、言うまでもなく旧約聖書の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の御名です。彼らは、イエスにおいて生まれ変わった自分たちによって旧約聖書の神が栄光を受け、聖なるものとされますように、と願ったのです。
もし「新約の神と旧約の神は別」と聞いたら、 イエスもぺテロもパウロも戦慄したでしょう。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、イエス・キリストの父なる神」というのが、彼らの自負心だったからです。(マタイ22・29~)
私が旧約聖書にこだわるのは、主に2つの理由があります。
ひとつは、新約の神と旧約の神を分けてしまうと、クリスチャンとユダヤ人との対話の可能性が根っこからなくなってしまうということ。ユダヤ人の側は、「イエスかい?彼を神だなんて認めることはできないけど、彼は良い預言者だよ。」と歩み寄りを示しているのに、「ウチの神様はおたくの野蛮な神とは違う」と言ってしまったら、キリスト教とユダヤ教の和解は未来永劫ありえなくなってしまいます。
ふたつめは、旧約聖書のエピソードのなかには、社会的に排除、抑圧されたマイノリティにとって希望や拠りどころとなるようなものがある、という点。
アメリカで奴隷として抑圧されていた黒人たちは、彼らの境遇をエジプトで奴隷とされていたユダヤ人に重ね合わせました。ユダヤ人の出エジプトを、黒人の自由、解放、自主独立の旗印としたのです。
また、私自身、雇用期間の定まらない非正規雇用の流れ者ですが、そんな境遇に、荒野を一人でとぼとぼ歩くアブラハム、イサク、ヤコブを重ね合わせて、彼らに語りかける神を想起します。
グノーシス派もそうですが、新約聖書だけの信仰にすると、なぜか社会から離れて現実逃避的になってしまいます。心の平安とか、死後の天国とかのために教会に引きこもるとか。クリスチャンを社会的マイノリティの解放とか、社会の様々な問題に対峙させるのは、新約から旧約を読む読み方ではなく、逆に旧約から新約を読む読み方ではないでしょうか?
人間の精神とか、死後の天国ではなく、明日食べるパンを心配する必要なく、怒鳴られたり、叩かれたりすることのない「世俗的な」乳と蜜の流れる居場所を求める人間へと連れもどすのは、やはり旧約聖書だと思うのです。
とはいえ、現在、イスラエルがエルサレムでパレスチナ人に行っていることに対しては私も反対です。民族主義的な偏狭さというのは、どこの国にもあるもので、イスラエルの政治をユダヤ教にだけ帰してしまうのは間違いだと思いますが、これについてはイエスがエルサレムを見て流した涙がクリスチャンにとっても、ユダヤ人にとっても正しい態度であろうと思います。
「ああ、エルサレム、エルサレム。平和への道をもしおまえが知っていたならば。しかし、それはおまえの目には隠されている。」ルカ19・41~
丁寧に書いて下さり、ありがとうございます。
削除大変わかりやすいです。
たしかにエレミヤ書31章3節に「限りなき愛をもってあなたを愛している(口語訳)」という表現があったり、律法にもやもめや在留異国人に対する配慮を示すものがあったりします。その意味では、イエス・キリストの示す「神像」は旧約も新約も同じだと思いますね。
ただ旧約「だけ」で見ますと、そのような神の愛と許しが示されていはいるものの、人間は決してそこに到達することができず、日々生贄を捧げて贖罪しなければならない、罪深さを悔いて生きねばならない、というある意味で「非情な」宣告がなされているような気がします。
だからこそ「救い主が生まれる」という預言も書かれているのですが、(旧約の時代の人々に言わせれば)じゃあ自分たち自身には希望がないじゃないか、という話にもなると思うんですよね。救い主がいつ生まれるか、わからないのですから。
そういう観点から、私は「新約ありき」で読むのがいいのではないかな、と考えています。
あとこれは余談ですが、黒人奴隷たち用に編纂された聖書には、出エジプト記が丸々除外されていたそうですね。他にも「奴隷の解放」に繋がる表現は、全てカットされていたそうです。これは明らかに改竄行為だと思うのですが。
「新約の神と旧約の神は別」と聞いたら、 イエスもぺテロもパウロも戦慄したでしょう。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、イエス・キリストの父なる神」というのが、彼らの自負心だったからです。(マタイ22・29~)
返信削除イエスはどう答えたかというと、今風に答えたとすると、バージョンアップしたものだと答えたでしょう。パウロもバージョンアップしたものだと答えたでしょう。
マホメットも同様に、ユダヤ教、キリスト教をバージョンアップしたものだと答えたでしょう。マホメットは私のが最終バージョンだというでしょう。確かに、コーランを最後まで読むと、そんな気がしてきますよ。
ソフトで言えば、ウィンドウズもマックもベーシックもみんな同じでみんな違うと言うようなものですね。
バージョンアップという表現が面白いですね。
削除ただ神の「バージョン」というのは、具体的にどういうことなのでしょう。神が完全であるなら、それ以上バージョンアップしなくていい気がします。あるいは時代に合わせた変化、表現上の変化、というようなことでしょうか・・・?