2018年4月19日木曜日

教会で頑張れば頑張るほど、見えなくなるもの?

 教会に長く通い、奉仕など頑張っていると、だんだん「見えなくなっていくもの」があります。

 これは牧師はもちろん、役員とか長老とか、ベテラン信徒とか、そういうポジションの人に多いです。と言っても年輩の方だけのものではありません。若くても教会生活の長い人、たとえば幼少期から教会に通っている人、クリスチャン2世、牧師2世などにも同様に見られます。
 でもそれ自体は見えなくなっていますので、これはなかなか(自分では)気づきにくい、タチの悪いものだと思います。

 私はかつて教会で熱心だった者ですけれど、今は百歩か千歩か引いたところにいます。そのせいか、そういうのが少しずつ見えてきたような気がしています。

 このブログを始めてちょうど5年です。そろそろ、教会で頑張っている人のためにも何か書けるかもしれません。今までは「教会を離れた人」のためにひたすら書いてきましたから、これは私にとってもちょっとした「成長」なのかもしれませんね(笑)。よくわかりませんが。

 では以下に、「教会で頑張れば頑張るほど見えなくなっていくもの」を箇条書きで紹介していきたいと思います(あくまで私見ですよ)。

見えなくなっていくもの:未信者・新来者の気持ち

 なんらかの興味や事情をもって、初めて教会に足を運ぶ人がいます。彼らがどんな気持ちか、ご存知でしょうか。

 ほとんどの人は、少なからず緊張しています。どんな所だろう、何て言われるだろう、粗相をしてしまわないだろうか、と心配しています。
 そういう人を迎えるには、それなりの配慮が必要です。

 私は今でも意識的に、行ったことのない教会に行くことにしています。日曜の礼拝に突然、お客さんとして参加するのですね。
 そんなことを繰り返して、すでにいろいろな教会に行ったのですけれど、初めてのところはいまだにちょっと緊張します。どんな人が出てくるか、わからないからです。

 教会に慣れている人には「いつもの風景」でしょうけれど、初見の人には「新世界」ですから。おっかなビックリ、そこに入っていくわけです。
 そういう人たちの気持ち、想像できますか?

 個人的に「こういう人に迎えてほしい」と私が思うのは、年齢や性別に関係なく、「笑顔」です。ニコッとしてくれて、「初めてですか?」とか「ようこそ」とか言ってもらえれば、あー来て良かったなあと、それだけで幸せな気持ちになれます。

見えなくなっていくもの:奉仕しない人の気持ち

 長年教会にいると、奉仕ばっかりになりますよね。忙しかったり大変だったりするかもしれません。「仕えるのも恵みです」みたいに謙遜する人もいます。
 でも私が思うに、仕えるのは「特権」です。特に礼拝などの目立つ奉仕はそうです。なにかを提供する側ですから、人々から見られ、賞賛されます。そういう立場は(正直言って)気分がいいですよね。だから「特権」なのです。

 それが「特権」でないと思うなら、その奉仕から完全に離れるところを想像してみて下さい。
「離れたくない」と思ったら、それはあなたにとってやっぱり「特権」なのです。他の信徒と自分を区別するもの、自分の立場を保証するもの、自分の価値を確認するもの、となっているのです(本当は、あなたの価値はそういうところにはありません)。

「特権」であることに気づかないならば、あなたは「奉仕しない人の気持ち」が見えなくなっているのだと思います。

見えなくなっていくもの:キリストの教え

 これは逆説的な現象です。教会で長年活動すればするほど、キリストの教えが何なのか見えなくなっていく、という逆説です。
 たくさん礼拝して、祈って、聖書を読んでいるのに、どうしてそういうことが起こるのでしょうか。

 これはぶっちゃけ、有名牧師の言うことや、キリスト教界のムーブメントの方が大切になっているからです。
 たとえば聖書はクリスチャンの「繁栄」など約束していませんが、「繁栄の神学」が流行っている昨今ですから、「信仰に進めば繁栄できるはず」と信じる人が少なくありません。
 あるいは「献金すればするほど祝福される」と信じる人がいます。でも献金とは本来「自分が祝福されるため」に捧げるものではありません。
 これらはほんの一例なんですけれど。

 そういうのは聖書を読めば簡単にわかることなのですが、なぜかベテランほど、わからなくなっているようです(皆が皆ではありません)。
 要するに「信仰に進むほど、信仰から迷い出てしまう」という現象です。これは一部の人たちだけの話でしょうか。いいえ、けっこう蔓延していると私は見ています。

 キリストの時代にも、既にそういうことがありました。だからそれは人間の性なのかもしれません。
 でもそういう危険性があると知っておくだけでも全然違うんじゃないかな、と私は思っています。

30 件のコメント:

  1. 長年、教会活動に参加していると、世間では普通でないことが、普通に感じられるようになるのでしょうね。なにも教会活動だけではないですね。先日も、地区の自治会の役員会で、ある役員(神社総代をやっておられる方)が、自治会の会員は全員、氏子だ。氏子になっていようと、なっていないと関係ない。
    神社に協力するのが当たり前だと、発言されて、もめましたが、その方にとっては、ごく普通で当たり前のことだったのでしょう。
    教会に関しても同様なことが、内部では見られますね。

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    1. たしかに、どんなことにも言えることだと思いますね。特に専門的な分野において顕著かもしれません。詳しい人には当たり前のことが、初心者にはそうではない、みたいな。
      ただ教会に関して言えば、そういうギャップはできるだけなくしていかないと、どんどん閉鎖的になってしまって問題になりやすいかな、とは思います。

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    2. 横から失礼します。
      メタ認知力や、他の人たちに対する謙虚さが失われないように気をつけておかないといけない、と私は考えます。個人も、組織も。
      (世の中には、地球の中心は自分かのように振る舞う人もいるのはわかっています。重々)

      教会の場合、
      自分達が正しくて、唯一無二の真理を知っている。世の中とは違う。
      という、けったいな選民意識、根拠のない優越感に自分達だけで浸っていると、
      一般社会の倫理観や常識を平気で無視した言動をとるんだな、と複数のプロテスタント教会を見て思います。
      私の住んでいる市内のプロテスタント教会では、駐車場が敷地内にないのですが、
      集会の度に教会周辺の道路が路上駐車だらけ、
      歩道も自転車が乱雑に停められていて、近所迷惑でした。

      昨年、新たに赴任してきた伝道師さんは、これはいけないと思われたみたいで、近隣の駐車場と契約して、路上駐車の問題は解決しました。

      誰か外部からの目が入らないと、気づけないものだと思います。
      (偉そうなことを言えるほど私が自分を客観的に見ている訳ではないです。自戒を込めて書いています。)

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    3. 駐車場のない教会で、日曜日に信徒が大勢路上駐車してしまう、というのはけっこう聞く話ですね。その駐車場を準備してくれた伝道師さんは良識ある方だとお見受けします。知っていて放置する牧師が少なくありませんから。

      第三者から指摘されてはじめて気づく、ということは人間誰しもあります。私もそうです。だから一番自戒を込めないといけないのは、私自身なんですけどね。

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    4. 路駐しているのを、放置する牧師が多いのですか。知りませんでした。見て見ぬふりかな。

      小学5年生の息子に話しました。
      「クリスチャンって、世の光、地の塩なんじゃないの。近況迷惑なことしてたら、逆やん」と言っていました。もっともな感想、疑問かな、と思います。
      迷惑かけないように配慮する人たちもいるし、周りはお構い無しな人たちもおるんよ、と答えましたが・・・。
      キリスト教業界では、一般常識に欠けている人が珍しくないという認識を親がしっかり持つ必要があると思いました。
      勉強になる記事、コメントをありがとうございます。

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    5. 教会、特に聖霊派とか使徒的とかの教会には、(もちろんまともな人もいますが)非常識な人も一定数いるかと思います。牧師自身が一番非常識だってこともあります(苦笑

      お子さんには、もしかしたら悪影響があるかもしれません。親としては悩ましいところですね・・・

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    6. 沖縄にあるセンター世の光教会がまさにそうです。駐車場は4台分しかありません。駐車場を借りる気もありません。皆暗黙の了解で近所やら、近所の公共の駐車場を無断で止めるか、あとは路駐です。それでも牧師は平気です。この4台の駐車場は牧師と副牧師と牧師の側近で占領して、お年寄りや、妊婦に譲る気はないようです。駐車場の事を尋ねられると、コインパーキングが少し離れたところにあります。と進めてきました。そこまでしていきたい教会ではないのに人を向かいいれる姿勢のない、へんな教会でした。子供連れて、路駐して毎週教会に通う その子供たちはどんな大人になるんだろう。

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    7. またその名前が出てきましたね(苦笑

      数少ない駐車場を牧師達が占拠する、というのもよく聞く話です。
      「牧師先生はいつも労しておられるから当然だ」みたいに考えられているのでしょうけれど、牧師が労するのが当たり前で、偉くもなんともないんですけどね。

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  2. 「奉仕しない人の気持ち」の別の例ですが、他の教会から来た人が以前このように言っていました。
    ・・・この教会は人数が多いので奉仕をしなくても気が楽なので来ています。前の教会は少人数だったので、強制はされないにしても、後ろめたくて奉仕するしかなかったので・・・

    こういう動機で来ている人がいても全然アリだと思います。私もそうなので(笑)。
    こういうことがオープンに言えるかどうかというのも、その教会の健全性を判断するひとつの尺度かなと思っています。

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    1. おっしゃる通り、逆のパターンもあると思います。
      奉仕したくないけど頼まれてしまう、断りづらい、みたいな感じの。

      そういうことも含めて、オープンになんでも言えるかどうかは、その教会の健全性をしめす指標の1つになると思います。

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  3. 役員や長老であってもキリスト教の基本から離れている方がいます。弟子訓練などその最たるもの。それがわからなくなっているのに閉口しますよ。

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    1. 聖霊派の一部の教会では、もう考えられないくらい聖書から離れたことを、当然のように言う人たちがいます。彼らに教えられる信徒たちも同様ですから、もう教会レベルでズレズレになってしまっている、という問題が現実にありますね。

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    2. 牧師夫人に奉仕を断ったら、あきれた顔して首を横に振られた。年下の分際で牧師夫人になったから偉くなったのか知らんが 年上へのリスペクトはないのか?誰がも誰がも皆、牧師に仕えること=神に仕えること  と思うと思うなよ!!! 牧師夫人まで先生と呼ばせやがって、勘違いも甚だしい。

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    3. あきれた顔で首を横に振られたんですか。勘違いも甚だしいですね。

      「信徒が奉仕をするのは当たり前」という風潮の教会なんだと思います。本当は「奉仕してくれてありがとうございます」なんですけれども。

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  4. 初めてコメントします。私はローマ・カトリック教会の信徒です。

    ドキドキワクワクしながら始めた、今も楽しい奉仕。その奉仕から完全に離れるところを想像してみたら…見事に「離れたくない!」と思いました(汗)。

    いつのまにか、鼻持ちならない特権意識を持った奴になっていました。これまで全然気づいていませんでした。自分を見つめ直す機会を与えてくださり、ありがとうございました。

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    1. はじめてのコメントありがとうございます。
      記事がお役に立ったなら光栄です。

      実際には気づかない方が多いと思いますので、匿名様は柔軟な思考をお持ちだと思います。今後も充実した教会生活をお送りくださいね。

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  5. 聖書に関する知識は膨大なのに、明らかにキリスト教の中心である「愛」から遠ざかっている人はきっと山ほどいるのではないでしょうか。だから実際は世の中の人から胡散臭い、カルト呼ばわりされているのだと思います。本当の意味で「クリスチャン」と呼べる人はこの国には非常に少ないのではないでしょうか。

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    1. 聖書の知識は豊富でも、その知識と実生活とがまったく結びついていない人たちがいます。やはり知っていることと、それを行うことは、根本的に違うのだと思いますね。

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  6. 一週間のうち5日間びっしり教会に通っています…自分の中から喜びが消え、疲れた、しか言わなくなっていることに気づきました。
    もう行くのをやめようと思ってます。自分の出来る奉仕に励んでいると頑張っているように見えるらしく、「自分ばっかり天国で冠=報いを受けようとしているね!」と言われます。疲れました(笑)
    信者の献金額にはおおよそ合わない=身の丈に合わない礼拝堂。神様は心をみているのではないのだろうか?
    韓国人の多い教会に通う日本人です。信仰の熱心さは素晴らしいのですけれど。

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    1. コメントありがとうございます。
      教会で働き続け、心身ともにお疲れなのではないでしょうか。休まれることも大切かと思います。

      すでに教会を辞める決意をされているのですね。まずはよく休んで、ご自分の時間を過ごしていただけたらと思います。

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    2. 韓国系の教会ってたいへんですね。先日、私が属している教会の神父さんと話している際にこんなことを言っていました。教会にもいろいろあります。
      プロテスタント教会にもいろいろあります。昔からあるプロテスタント教会、ルーテル教会、カルバン教会、聖公会などは安心です。これらの教会の聖書学者が書いていることも安心して学べます。
      用心しなければならないのは、最近できた福音派やペンテコステ派の教会や、その教会の聖書学者は危ないです、などと話していました。
      同時に、カトリック教会にも、いまだに第2バチカン公会議以前の状態にもどそうという復古主義の神父さんもおられるので、安心できませんね。・・などと話されていたのを思い出しました。

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    3. 神様もあなたを気の毒で見ていられないくらい心配しているでしょう。。。

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    4. 4月21日0:53にコメントした者です。
      教会から離れまして、ゆっくりしています。
      色々な奉仕、献金、長時間の祈り、断食などなど(笑)…こちらのブログで紹介されている事、だいたい経験しました。
      「あの人は悪魔にやられた」とか言われ、可哀想な人になってるみたいです(笑)
      昨夜はコッソリ「どこの教会に移ったの?いい教会なら教えて」と信者さんから電話がきたり。

      ネットで見つけた、ある宣教団体がとても頑張って神様の働きをされているので、そちらに今月の献金を捧げました。
      心がすっきり、喜びを感じました。
      祈りも今までノルマのように(笑)とにかく長く祈らないといけなかったのですが、なんかそれって違いますよね?
      異言で祈るのをやめました。今は自然に自分の言葉で祈っています。
      聖書のみことばにではなく、随分教会の教えに縛られていたんだなぁ、とつくづく思いました。

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    5. 教会から離れたとのこと、良かったと思います。どうぞゆっくり休んで、ご自分の時間をお過ごしください。
      教会にいかに縛られていたか、これから少しずつ気づいていくと思います。決してご自分を責めることなく、一つ一つ整理していってほしいと思います。

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  7. 奉仕が苦痛、教会も休みがちになっています。
    家族の者からなんで行くのか?
    嫌なら行かなくてイイんじゃない
    と言われます。癒されるより
    疲れます。教会の人には申し訳ないけど
    奉仕しないと肩身が狭いです。

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    1. 教会で疲れるのは、牧師や役員の皆さんだけでいいと思います。彼らは奉仕が苦痛で疲れても、それなりの責任がありますから。
      一般の信徒さんが「奉仕しないと肩身が狭い」と思うなら、そこは教会と言うより奉仕地獄です。教会なのに「地獄」というのも皮肉な話ですが。

      まさに「なんで行くの?」という話になりますね。

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  8. 教会に通い続けることで見失うものがあるとすれば、日本には信教の自由があることもですね。

    信教の自由がある以上、宗教の選択を間違えることもあるわけで、1回入信してみたけどやっぱり自分には合わなかったとわかったときは辞めていいものだと思うんです。

    でも教会に通いつづけていると、ほかの人がキリスト教をやめたときに、「アイツはダメになった」的な否定的な見方をしてしまうように思います。

    それは結局、自分自身にもはねかえってきて、
    合わない生活を惰性で続けていくこともありえると思います。

    まあ私は元クリスチャンですが、やめた人に対しても、その人の人生の一時期に、少しであっても関われたことを感謝できるような宗教であってほしいですけどね。

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    1. やめた人に対して「あいつはダメだ」と言うのは、もはや「狂信」だと思いますね。

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    2. うちの教会は人が出ていくたびに周りがどうして出て行ったの?みたいな空気になると いつも牧師が「神様が数えるなといった」と講壇のうえから説明するよ。???確か神様99匹をおいて1匹を探しに行かなかったっけ?矛盾。牧師はちゃんとした神学校に行ったほうがよい。

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    3. 「神様が数えるなと言った」から言いつけを守っているんですね。子供みたいな牧師じゃないでしょうか。もう一回義務教育をやり直していただきましょう。

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