2017年8月31日木曜日

ヘブル語で聖書を読むということ

 クリスチャンの中に「ヘブル語で聖書を読もう」という人がいます。
 日本語でなく、英語でもなく、ヘブル語です。
 つまり原典を原語のまま読もう、という試みです。
 もっともヘブル語で読めるのは旧約聖書の方なのですが(新約聖書の原典はギリシャ語)。
 ちなみにカトリック教会は、ギリシャ語の旧約聖書も原典と認めているようです。

 以前、知り合いのクリスチャンも、ヘブル語研究会みたいなサークル(?)に参加しているとか言っていました。どれくらい読めるようになったのかは聞いていませんが。

 ヘブル語はイエス・キリストも(地上において)使っていた言語です。だからクリスチャン的には「憧れの言語」かもしれません。また「原典を原語のまま読む」というのは、それなりに価値のあることだと思います。だから「ヘブル語を学んで聖書を読みたい」という動機そのものを否定する気はありません。私個人はあんまり興味はありませんが。

・行き過ぎた「ヘブル語信仰」

 ただ「クリスチャンならヘブル語で聖書を読むべきだ」あるいは「ヘブル語で読まなければ本当の意味を知ることができない」と言うのは、いささか言い過ぎだと思います。そういうことを言うのは一部の人だけだと思いますが。

 もし本当にヘブル語で読まなければ「本当の意味を知ることができない」のだとしたら、そもそも日本語版聖書なんて要らなくなってしまいます。あるいは日本語版だけでなく、あらゆる言語への翻訳が、無駄になってしまいます(なかには文字通り命懸けで翻訳されたものもありますが)。もうヘブル語聖書だけがあって、読みたい人はみんなヘブル語を勉強すればいい、という話になるのではないでしょうか。
 もっとも新約聖書はギリシャ語なので、ギリシャ語の勉強も必要になりますが。

 でも実際には、そんなことはないと思います。

 私の信じるところでは、聖書の「翻訳」にも神様の御旨のようなものが働いていて、どうしても必要なことはそれぞれの言語にちゃんと訳されているはずです。もし翻訳の段階で「教え」が根本的・本質的に変えられてしまったのなら問題でしょう。けれど、そこまで大きな乖離はないと思います。もしあれば、それぞれの言語ごとに「違ったキリスト教」が発生していることになりますから。
 でもどの国に行っても、キリストは神の子だし、十字架刑の3日後によみがえったし、愛とゆるしを語ったと認識されています。今までいろいろな国のクリスチャンに会いましたけれど、そのへんが根本的に違うなんて人はいませんでした。

 もちろん原語と訳語で、意味が差し替えられている箇所はあります。たとえば(ヘブル語でなくギリシャ語の話になりますが)「教会」という言葉がそうです。あるいは「罪」という言葉もそうかもしれません。他にも種々あると思います。このへんは福音派教会では当たり前に語られていることなので、ご存知の方も多いと思います。
 でもそれらの差異は、キリストの教えを根本から覆すものではありません。知っていればより深い理解になるかもしれませんが、どうしても知らなければならないことではありません。

 よく「教会は本当はエクレシアという意味だ」としたり顔で言う人がいますが、だから何なのでしょう。「教会」と呼んでも何ら問題ありません。どうしてもエクレシアという字面にこだわるなら、「東京○○教会」を「東京◯◯エクレシア」とでも改名すればいいでしょう。エクレアと間違えられそうですが。

・「原語のまま読む」ということ

 もちろん、繰り返しますが、「原典を原語のまま読む」こと自体を否定する気はありません。

 しかし「原典を原語のまま読む」というのは、厳密に言うと、かなりハードルの高い作業です。
 ヘブル語の辞書を使えば「原語のまま読める」と思うかもしれませんが、それはちょっと違います。

 たとえば「日本人が英書を英語のまま読む」という場合。
 この場合、英語にものすごく堪能で、ネイティヴ並みの理解があり、もはや「思考が英語になっている」のなら、「英書を英語のまま読む」ことはできます。「英語で読んで英語で理解している」からです。
 でもそこまで堪能でなく、辞書をひきながら読む、あるいは英単語や構文を頭の中でいちいち日本語に変換して読む、というのは「英語を日本語に翻訳して読む」ことです。「英書を英語のまま読む」とはちょっと違います。違いがわかるでしょうか。

「原語のまま読む」とは、単に辞書で翻訳しながら読むことではありません。その社会(ここではヘブル社会)においてその単語がどのように使われているか、その背景にどんな考え方があるのか、どんなニュアンスがあるのか、といったことを把握している必要があります。そしてそのように読むならば、逆に日本語に変換しきれない「何か」があることに気づくわけです。「原語のまま理解している」からです。

「原典を原語のまま読む」ことの価値は、その翻訳しきれない「何か」を掴むことにあると私は思います。

 つまり聖書を「原語のまま読んだ」からといって、教義が根本から覆されるような大発見があるわけではありません。もちろん有益な発見があるでしょう。「あーこの箇所にはこういう意味もあったんだな」と知ることができるかもしれません。でもそれでキリスト教信仰が根底から変革されるというのは、言い過ぎだろうと私は思うわけです。

・付け足される「救いの条件」

 そもそもの話ですが、「ヘブル語で聖書を読まなきゃダメだ」と主張する人は、ヘブル語ウンヌン以前に、信仰観が偏っているように思います。「◯◯でなければダメだ」「◯◯でないと救われない」みたいな言い方が目立ちますから。

 ヘブル語(あるいはギリシャ語)で聖書を読むのは、たしかに価値があると思います。でもそれは、「救いの条件」ではありません。

 いろいろなクリスチャン(あるいは教会)を見てきましたが、この「救いの条件」がアレコレ付け足されていることが、少なからずありました。たとえば、
「什一献金しなければ携挙されない」
「葬式で焼香したら天国に行けない」
「毎日伝道しなければ救われない」
「日曜礼拝を休んだら救いから漏れる」
「教会批判をしたら地獄に落とされる」
 などなど。

「こうした方がいい」ならまだわかります。でも「こうしなければダメだ」となってしまうのはナゼでしょう。よくわかりません。
 というわけでヘブル語自体に害はありませんが、その手の人たちにかかると、有害なものになりえます。というわけで気をつけましょう、という話でした。

2017年8月27日日曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第57話

 ルンド師のメッセージが続く中、会堂のドアが静かに開いた。そして見知らぬ婦人(五十代くらいだろうか)が申し訳なさそうに入ってきた。彼女は金田一耕助みたいな白い帽子を被っている。受付係と最初に目が合って、何度も頭を下げた。
 その金田一帽子に続いて、もう2人が入ってきた。1人はもう少し若そうな女性で、紺のジャージを着ている。そのジャージに寄り添われてノロノロ歩くのが、明らかに高齢で、具合の悪そうな婦人である。髪は残らず白髪で、肌は血色が悪く、腰は曲がっていて、歩くのがやっとに見える。鼻から酸素吸入をしていて、車輪のついた携帯式酸素供給装置を、片手でしっかり握って引きずっている。その手にだけ妙に力が入っているように見えた。明らかに何かの病気のようだ。それも重症の。
 病気の母と、その娘と孫娘、という構図だろうか。もちろん金田一帽子が娘で、ジャージ姿が孫娘だ。あるいは孫娘でなく外部のヘルパーかもしれない。キマジメくんはそんなふうに予想した。どこかでこの集会のことを聞きつけて、老婦人の「癒し」を願って、連れてきたのかもしれない。
 3人は、酸素吸入の老婦人のペースに合わせてゆっくり進む。そして会衆席の最後列にようやくたどり着いた。ほぼ満席だったが、受付係が先回りして何人かに声をかけ、3人分の席を確保していた。
 キマジメくんは不謹慎ではあるが、これは良い機会だと思った。ルンド師の奇跡的な「癒し」が行われる絶好の相手が、やって来たからである。あの老婦人がすっかり元気になり、酸素を外して、スタスタ歩いて帰るところをキマジメくんは想像した。もしそうなれば、日本のキリスト教界におけるものすごい「ブレイクスルー」になるのではないだろうか(「ブレイクスルー」とは溝田牧師がよく好んで使う言葉だ)。
「というわけで皆さん」ルンド師のメッセージは佳境に入ったようだ。「信仰を宣言して下さい。癒しを宣言し、祝福を宣言して下さい。そして約束のものを受け取って下さい」
 またしても溝田牧師が「ハレルヤ」と付け加える。会衆から大きな「アーメン」が起こる。
 ルンド師はいささか口調を早くして(それでも平均に比べてまだ遅いだろう)続ける。
「皆さん、鍵は宣言にあります。宣言することです。信じた通りになると、心に強く確信して下さい。そしてそれが起こったところを想像しながら、大胆に宣言するのです。その信仰の宣言に、全能の神が力強く働いて下さいます。神は天地万物を造った方です。稲妻を起こし、海を逆巻かせ、大地を揺るがす方です。その圧倒的な力が、今、あなたの人生に現れるでしょう。あなたの信仰の宣言によって!」
 これには割れんばかりの拍手が起こった。口笛が鳴り、「イヤァッ!」とか「ハレルヤ!」とかの掛け声が起こった。その拍手が収まる前に、ルンド師はまくし立てる。
「病気は神の御心ではありません。神の御心は私たちが健康に過ごし、祝福されて過ごすことです。あらゆる必要が満たされた、満ち満ちた人生を過ごすことが、神の私たちに対する願いなのです! それは私たちの権利なのです。皆さん、宣言によってその権利を行使して下さい。癒しを宣言し、祝福を宣言して下さい!」
 また拍手が起こる。ルンド師は聖書を閉じ、両手を挙げ、大きな声で言い放つ。
「この教会に、神の大いなる祝福があることを宣言します!」
 今日最高の歓声が沸き起こった。誰もが拍手し、声を上げていた。キマジメくんも隣の音響係も拍手した。例の4人組もさすがに「助祷」をやめて拍手をしていた。
 その間、ルンド師と溝田牧師はいくつか言葉を交わした。そしてルンド師は一歩後退して、ペットボトルの水を何度か続けて飲んだ。今度は溝田牧師が講壇の真ん中に立った。
「では皆さん、賛美を捧げてのち、癒しのミニストリーの時間を持ちます。皆さん信仰をもって前に出てきて下さい。そしてメボ・ルンド師の言われた通り、信仰を宣言しましょう!」
 そう話している間に、賛美リーダーとコーラス隊がステージの隅に立った。そして奏楽者らはそれぞれポジションに着いた。さっそく演奏を始める(このあたりの段取りは、リハーサルで何度もくり返し練習した)。
 賛美の最中に、会衆が続々と前に出て行く。すぐにスペースが足りなくなって、前列の椅子が何列か撤去された。例の金田一帽子も、病気の母(だろう)を連れて前に行こうとした。しかし通路は狭く、人でいっぱいである。それに前に出ても、講壇前にもはやスペースはない。見かねた受付係が声をかけ、何度か言葉を交わし、どうやら金田一帽子らは最後列の席に留まることにしたらしい。もう一度座り直し、舞台の様子を注視している。
 例の4人組は前に出て行かない。むしろ会衆席の後方のスペースに移動した。そして適当な間隔を置いて横一列に並んで立ち、今度は両手を挙げて、大胆に左右に揺れながら「助祷」を再開した。賛美中なので大きな声で「異言」を発している。どうやらこれが彼らのミニストリー中の「助祷」スタイルらしい。
 ついに「癒し」のミニストリーが始まる。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年8月24日木曜日

「話し合い」という名の虐待

・「話し合い」をさせられる子供たち

先日SNSで見た、「ブラック吹奏楽部」の話を引用します。

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なぜか先生が突然キレて職員室に帰る
  ↓
みんなで何が悪かったのか話し合う
  ↓
職員室に謝りに行く

という話を実際にも聞きます
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 これを見て強烈に思い出したのが、先日も紹介したA牧師の姿です。「子供を教会に取られる」現象の彼です。
 A牧師もこれと似たようなことをやっていました。と言っても、突然キレて出て行くわけではありません。A牧師は、子供たちによく「話し合い」をさせていました。

 たとえば。
 子供たちのセルグループの中に、イマイチ元気のないグループがありました。牧師はそこのメンバー全員を集めて、こんなふうに言いました。
「君たちはどうも元気がないな。今の自分たちに何が足りないのか、よくよく話し合ってみなさい。そしてどう改善したら良いか、自分たちなりの結論を出して、報告しなさい」
 すると子供たちは会堂の隅で輪になって、膝を突き合わせて、話し合うわけです。元気なグループにはあって、自分たちにないものは何なのか? どうしたら元気になれるのか? 「元気がない」のは「悪いこと」だとすでにインプットされているので、「このままじゃいけないんだ」という危機感をもって話し合います。

 それで1時間とか2時間とかかけて、一応の結論を見つけます。その結論を持って牧師のところに行くと、こんなふうに言われます。
「これだけ時間をかけて話し合って、それだけ? もっと他にもできることあるよね? もう一回、必死になって話し合ってきなさい」
 というわけで、再び膝を突き合わせて話し合います。今回は「もっと何か考えなきゃマズイ」というプレッシャーが更にかかっています。

 と、こんなようなことが、牧師が「よし」と言うまで続くのです。A案を出してダメと言われ、B案を出してダメと言われ、C案を出してダメと言われ・・・とにかく牧師が納得する案を出すまで、ずっと続くわけです。
 これ、冒頭のブラック吹奏楽部の「何が悪かったのか話し合って、先生に謝りに行く」という話にソックリだなあと思いました


・何のための「話し合い」?

 こういう「話し合い」は、子供たちの成長とか改善とかのためではありません。たしかに話し合い自体には、子供たちにとって益な面もあるでしょう。でもその本当の狙いは、「牧師が意図した答えを子供たちから引き出すため」です。

子供たち「◯◯ですか?」
牧師「そうじゃないだろ」
子供たち「△△ですか?」
牧師「違う違う。よく考えなさい」
子供たち「じゃあ、××ですか?」
牧師「惜しいな。もう少し深く考えなさい」
子供たち「もしかして▲▲でしょうか?」
牧師「そう、それだよ。やっと見つけたね」

 この場合、牧師ははじめから▲▲へ誘導したかったのです。子供たちに自由に話し合いをさせて、自分たちなりに結論を出させたように見えますが、実はどこにも自由などありません。子供たちはうまい具合に誘導されて、自分で自分を狭い所に閉じ込めてしまったのです。

 ブラック吹奏楽部の子らも、これと同じようなロジックで追い込まれたんだと思います。すなわち「自分たちの何かが悪かったんだ」というのが最初に前提として置かれるので、もう自分たちの「欠け」を探すしかなくなっているのです。先生の方がおかしいんじゃないか、という方向には考えられません。だから本当は何が問題なのかイマイチわからないのに、一応話し合って反省して、謝ってしまうのです。そして謝った時点で、先生は正しく、生徒たちが一方的に悪い、ということになってしまいます。

 要は、「話し合い」とは名ばかりなのです。

 子供たちは自分たちだけで一生懸命考えて話し合っているつもりですが、実は大人の手のひらでコロコロ転がされていただけなのでした。

・「話し合い」という名の虐待、あるいは洗脳

 このような「話し合い」をA牧師は多用していました。たとえば傍目にも仲が良くない2人の若者、BくんとCくんを呼んできて、和解するよう話し合わせます。「兄弟は互いに愛し合うべきだろう。なぜ君たちはそれができないんだ。この機会に、腹を割ってよく話し合いなさい」

 こう言われると、もう2人は形だけでも和解せざるを得ません。しかも、特別コレと言った理由がなく単にウマが合わないだけだとしても、何かしら「仲が悪い理由」を自分たちで見つけ出して(作り出して)、演出っぽい「和解」をやるハメになります。
 でも結局BくんとCくんの関係は、ほとんど変わりません。あまり仲が悪いと思われないような工夫がなされる以外は。

 こういうふうにして、子供たちは「クリスチャンっぽく振る舞う」のが上手になっていきます。

 でもこういう「話し合い」を利用して人をコントロールしようとするのは、ほとんど虐待か洗脳ではないかと私は思います。

 つくづく思うのは、指導する側の人間の重要性です。その人がどんな人物かで、指導される側の運命が大きく左右されてしまうからです。健全な成長へと至るのか、それとも単に都合よくコントロールされて終わるのか。
 皆さんを指導する立場の人間は、どんな人物でしょうか。どれだけあなたのことを考え、あなたがより良くなれるように、配慮してくれているでしょうか。それとも「成長」という名のもと、あなたを支配し、コントロールしていないでしょうか。あなたの人生は一度しかなく、今という時間はもう二度と帰ってこないのですから、他人にコントロールされて無為に過ごすことのないよう、ただただ願うばかりです。

2017年8月21日月曜日

ハーメルンの笛吹き? 「子供を教会に取られる」現象

 夏の怪談みたいですが、「子供を教会に取られる」現象について、今回は実際に見たことを紹介したいと思います。
 ただこれは(たぶん)極端な例なので、これをもって「教会」を語るべきでもないと思います。多くの教会はこんな状態でなく、真っ当に頑張っていることでしょう。だから反面教師的に読んでいただければと思います。

・「若者育成」のワナ

 ある教会が、いわゆる「若者育成」に力を入れていました。
 とにかく若者向けの活動が満載でした。日曜は礼拝以外にも終日いろいろなアクティビティがあり、土曜も平日も、若いクリスチャンを集める集会やミーティングが用意されています。遊具類も充実していました。そのぶん大人の信徒たちは放置されていましたが。

 その若者育成の中心を担うのはA牧師で、言い方は悪いかもしれませんが、十代後半の子供たちにベッタリでした。良く言えば「次世代育成に重荷がある」ということになりますが。
 A牧師はいつも若者たちをまわりに置いて、笑い話に花を咲かせていました。個人的な相談にもよくのっていました。一人一人のことを気にかけて、よく声をかけていました。だから親身になってくれる先生、良くしてくれる先生、楽しい先生、という印象が皆にあったと思います。当然ながら、若者たちからは大人気でした。

 そんなA牧師に心酔する子たちもいました。牧師の言うことなら間違いない、ということで彼ら(彼女ら)は何でもかんでも言われるままに従っていました。もちろん彼らは、それで神様に従っているつもりだったのですが。
 そのうちA牧師は、「従順な」若者たちを礼拝奉仕で重用するようになりました。楽器や歌を練習させて毎週ステージに立たせ、ダンスを披露させ、証(あかし)をさせ、代表で祈らせました。
 いつの間にか、礼拝奉仕の大半を、彼ら若者たちが担うようになっていました。

・幅をきかせる子供たち

 すると、若者たちに徐々に変化がみられました。「自分は重要な立場にいる」という意識があったのでしょう、態度が尊大になっていきました(もちろん全員ではありません)。たとえば奉仕に行った先の教会が「異言を語らない教会」だと、「あーこの教会の人たち、異言わからないんだー(苦笑)」と平気で言います。礼拝奉仕をしていない大人の信徒を見下して、言うことを聞きません。まあこれは若者らしいと言えばそうかもしれませんが。

 しかしもっと深刻な問題は、それぞれの若者が、「A牧師の言うことなら聞くけれど、親の言うことは聞かない」みたいな状況になったことです。その親というのもクリスチャンで、同じA牧師の牧会を受けているので、簡単に言うと親も子も同じ信徒なわけです。しかし子供の方が牧師のそばにいるし、礼拝奉仕なんかでも目立っているので、どちらかと言うと「親より上」みたいな意識になったのでしょう。「自分は親より霊的だし、いろいろわかっている。親は何もわかっていない。だから自分に指示する資格はない」みたいに考えるようになったのだと思います。親からしたら困った事態でした。

 もっとも年頃の若者が親に反抗するのは、自然なことです。むしろ反抗心が見えてこない方が問題かもしれません。 でもその反抗は親だけでなく、大人全般とか、社会全般とか、権威全般に対して起こるものです。その中で親が一番反抗しやすい相手だというだけです。

  でもその教会の若者たちは、A牧師には決して反抗しません。「牧師に対する絶対の従順」 が、「神に対する絶対の従順」と同列になっているからです。だから親には大々的に反抗しても、A牧師に対しては素直で従順な「子供」であり続けるわけです。

 たとえばですが、奉仕の準備などで若者たちが遅くまで教会に残ることがありました。親からすれば、10時になっても11時になっても子供が帰ってこない、という状況です。もっと早く帰ってきなさい、と子供に注意します。するとこう反論されます。
「神様のための奉仕なんだから仕方がないだろ」
「これをやらないとA牧師が困るんだから」
「自分には責任があるんだから」
 子供が一生懸命やっていることだし、牧師が絡んでいることでもあるので、親は何も言えなくなります。
 こういう状況を指して、ある親がこんなふうに言いました。とても印象に残る言葉でした。
「子供を人質に取られているみたいです」

・教会から離れない子供たち

 やがて若者たちが卒業する頃になると、「進路」が問題となりました。
 A牧師は大勢の若者が卒業するタイミングに合わせて、新規事業を立ち上げることにしました。若者たちをそこで働かせるためです。彼らがどこかに進学して(たとえそれが神学校や宣教訓練校であっても)教会を一時的にでも離れると、それきり帰ってこない可能性があります。そのリスクを冒すよりは、「楽しそうな就職先」を用意してあげて、ずっと若者たちを囲っておこうと考えたのでしょう。中心的な子たちがそれに同調すると、大勢が続きました。

 それを見る親たちは複雑でした。我が子が高卒で、先行きのわからない「事業所」に就職すると言い出したからです。必ずしも学歴が重要ではないでしょうし、教会がバックアップするとはいっても、不安は拭えなかったと思います。教会に入り浸りだった子供が他の世界のことなど知らずに下した決断だったのも、気がかりだったでしょう。
 かと言って、上記のような状態にあるので、子は親の助言や忠告など聞きません。しかも牧師はこんな大きなことを言います。
「この事業を通して、世界に出て行くんだ」
「世界中のクリスチャンとネットワークをつくるんだ」
「壮大な神の事業を成し遂げていくんだ」
 子供たちが夢を見るには、十分な謳い文句でした。

 というわけで、言葉は悪いかもしれませんが、「子供を教会に取られる」みたいな話になるのでした。
 子供たちはどこか遠くに行くわけではなく、だいたいいつも教会にいるので、「取られた」というのは言い過ぎかもしれません。でもその心においては、親からすれば、ものすごく遠くに失われてしまったように感じるのもまた、事実なのでした。

2017年8月18日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第56話

 カタコトの日本語で挨拶したあと、ルンド師はゆっくりと英語で話しだした。英会話教室の講師がわざと一言一言ゆっくり喋るような、丁寧な口調だった。おかげで、キマジメくんでも所々聴き取ることができた。
 ルンド師が喋り終えると、すかさず溝田牧師が通訳する。
「皆さん、今日はここで、神の癒しと奇跡について語るよう、導かれています」
 アーメン、と会衆が応える。
「癒しと奇跡は、どこか遠くにあるのではありません。それは私たちの間に、日常の中に、今ここにあるのです」
 さっきより大きなアーメンが起こる。
「私たちの信仰、それが鍵です。私たちの信仰のアクションが、」と言ってルンド師は右手を前に伸ばす。「神の力を解放するのです。ハレルヤ!」
 さらに大きなアーメン。
 ちなみにルンド師は、最後のハレルヤは言っていない。溝田牧師が「合いの手」のようにハレルヤと付け加えたのだ。
 彼の通訳にはそういう傾向があった。講師が言っていないこと、たとえば今回のようなハレルヤやアーメンなどの掛け声とか、あるいは牧師個人の感想など、時々付け加えるのだ。もっとも英語がわからないほとんどの信徒は、そんなこと知る由もないのだが。

 余談だが溝田牧師の「特徴的な」通訳で、キマジメくんが特によく覚えていることがある。
 以前、同じように海外から来日した講師が、礼拝で説教をした時のことだ。そのときも溝田牧師が通訳をしていた。その講師は「休息の必要性」について語った。奉仕を一生懸命頑張るのは素晴らしいことだけれど、休息をとるのも同じくらい素晴らしく、大切なことなのだ、という趣旨の話だった。シンプルな英語だったので、キマジメくんも概ね聴き取ることができた。しかし溝田牧師は話をこのように「改変」していた。
「講師は休息が大切だと言っているけれど、これは日本人にはあまり当てはまらない考え方ですね。海外と日本では、そもそも事情が違いますから。私たち日本人は、休息よりも働く方が実はリラックスできるのです」
 講師が話したよりも多く溝田牧師が話していたので、キマジメくんはすぐ改変に気づいた。講師の話を否定してしまったら、通訳として誠実でない気がした。けれど牧師という立場上、教会を監督するためには、そういうことも必要なのかもしれない。キマジメくんはそんなふうに考えた。

 ルンド師の話は続いた。アメリカで行った「癒しと奇跡」の実例がいくつか紹介され、会衆から感嘆の声が上がった(その間も、例の4人組は前後左右に揺れながら「助祷」に勤しんでいた)。長年車椅子だった男が歩きだしたケース、盲目だった少女の目が開かれたケース、謎の奇病に冒された婦人が瞬時に回復したケース・・・。挙げればキリがない、とルンド師は言った。
 そこまですごいことが起こっているのに、この日本でほとんど何も起こっていないのはナゼだろう、とキマジメくんは思った。まさか神様が贔屓をされるはずはない。やはり牧師が普段から言っている通り、クリスチャンが少ないことが原因なのだろうか。日本のクリスチャン人口は1%未満だと聞いたことがある。神の国の勢力がそれだけ劣勢だから、「霊の領域」において暗闇(いわゆる悪魔)の力が大きく、神の業(わざ)が起こりにくくなっているのだろうか(溝田牧師からは、いつもそんな話を聞いている)。
 ではクリスチャンが増えるには、どうしたらいいのだろう。もっともっと伝道に励むべきだろうか。でも暗闇の力が大きくて、神の業が起こりにくくなっているのなら、伝道だってうまく行かない気がする。それにそもそもの話だけれど、悪魔の支配のせいで神の働きが制限されているとしたら、結局は神より悪魔の方が強い、ということにならないだろうか。悪魔がどれだけ束になっても神様には勝てないはずなのに、ここ日本では「クリスチャン人口が少ないから」という理由で、神が勝てなくなっている。それはどこか、矛盾している気がした。
 もっとも、自分が未熟すぎて、いろいろわかっていないだけなのかもしれない。キマジメくんはそんなふうにも思った。

 さて、ルンド師の話は次の段階に進んだ。「どのようにして癒しが起こるのか」だった。
「皆さん、癒しは祈りではありません」ルンド師は変わらずゆっくりな口調で言った。「聖書には、病気を治して下さい、という祈りは出てきません」
 おお、という感嘆が会衆に起こる。
「では、いくつか聖書を開いてみましょう」
 そして新約聖書の有名な「癒し」の箇所が読み上げられた。見えるようになった盲人、よみがえった少女、瞬時に癒された百卒長の中風のしもべ。
「皆さん、これらのケースに共通するものが何か、わかりますか」
 会衆は沈黙して、次の言葉を待っている。ルンド師は会衆をゆっくり見回し、十分に勿体つけてから、口を開いた。
「まず第一に、誰も癒して下さいとは祈っていない、ということです。そして第二に、癒しが宣言されている、ということです。つまり癒しとは、宣言なのです」
 おお、という感嘆がまた起こる。

「だから皆さん、癒して下さいと祈るのは、もう止めなさい。たった今から、癒されよと宣言しなさい。癒されよと命じなさい。それこそが神の信仰です」
 例によってアーメンという応答が起こった。多くの信徒が熱心にメモをとり、ウンウン頷いている。集会は明らかにクライマックスに近づいている。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年8月14日月曜日

【翻訳】ゲイ「治療」クリスチャン・キャンプからの脱出(イワン・マソウ著)

・記事紹介

 金融業のイワン・マソウ氏をゲイから「変換」させると約束したキリスト教系キャンプで、何があったのか? 彼は本当に「変換」したのか? 彼自身によ体験記を、ご覧下さい。
 原文はこちらになります。


※以下、イワン・マソウ氏の書いた体験記(英文)を日本語に翻訳したものです。
※翻訳・掲載にあたりイワン氏ご本人の許諾を得ています。


・はじめに

 私自身、それを考えたことがないと言ったらウソになる。ストレート(異性愛)に目覚めたらどんなだろう、と。そう考えたことのないゲイなんていないと思う。
 ある日突然ストレートになって、家の中を歩き回るのだろうか。
 サッカーの試合で汚いヤジを飛ばすのだろうか。
 乳母をいやらしい目つきで見るのだろうか。
 などなど。

 ゲイの「(ストレートへの)変換」は可能なのか? キリスト教原理主義者たちは、それが可能だと考えている。彼らは最近、ロンドンのバスに「ゲイはセラピーで治療可能」みたいなポスターを貼り出そうとした。ボリス・ジョンソン(当時のロンドン市長)がそれを阻んだので、言論の自由の危機だなんだと騒いだけれど。「BBCラジオ4」もその問題を取り上げていた。私は大いに考えさせられた。私、44歳のオープンリーゲイの男性は、彼らの言う「集中的なセラピーコース」で、「治る」のだろうか? その答えを知る方法は、一つしかない。

 アメリカのエクソダス・インターナショナル・フリーダム・カンファレンスが、その手のコースで最大のものだった。エクソダスは1976年に設立された国際的な団体だ。「同性愛に影響された(毒された)世界に、キリストのからだを用いて、恵みと真実をもたらす」のが彼らのミッションだそうだ。

 毎年、ミネソタの泊まり込みのカンファレンスには1200名ほどが参加している。スピーカーにはキリスト教原理主義団体のスターなんかもいて、「実践的な学び、感動的な証、ダイナミックな礼拝、そして愛深い交わりで盛りだくさんの日々」を提供してくれるという。コストは1人当たり1000ドル(10万円くらい)に近い。
 パンフレットを読む限り、スーパーマンの電話ボックス(クラーク・ケントが中で瞬時に変身して、スーパーマンになって出てくるアレ)みたいに聞こえる。私も本当にゲイとしてそこに入り、ストレートとなって飛び出すのだろうか?
 念のため、マントでも持って行こうかな?

・月曜日

 出発の準備中、エクソダスからメールが届いた。オンラインでもっと情報が見られるという。その中にこんな記事があった。「なぜ誰もが変化を求めるのか?」その記者は、「自分自身を信じていないからゲイなんだ」みたいなことを言われてとても葛藤したという。のちに希望の光を見出すまでは。

「自由を得て、同性愛指向から異性愛指向へ変化した」という有名人たちの様々な例を、彼は引用していた。女優のアン・ヘッシュ、映画監督のスティーブン・ダルドリー、コメディアンのジャッキー・クルーン・・・。
 ジャッキー・クルーンなら知ってる。私たちは同じ(同性愛指向という)問題を抱えていたはずだ。けれど彼女は今、ストレートの男性と落ち着いて、4人の子供をもうけている。スティーブン・ダルドリーのことはよく知らないけれど、同性婚をしていた過去があったはずだ。
 ジャッキーを呼んで、そのへんの話を聞いてみたいものだ。彼女、このカンファレンスのスピーカーじゃなかったっけ?
「クリスチャンがゲイ退治をしているなんてゾッとするわ」と彼女は言うだろう。「じゃあ逆に、つまらないストレート男性をゲイに変えるキャンプなんてあるの?」
 それはないと思う。

訳者注:アン・ヘッシュ、スティーブン・ダルドリー、ジャッキー・クルーンはそれぞれ、同性愛指向でなくバイセクシャルだと告白しています。

・火曜日

 私は一日早くミネソタ空港に着いて、セント・ポールのミシシッピ川沿いのホテルに入った。ミネソタは他より宗教っぽい州で、セント・ポールにゲイバーはたった一つしかない。「ゲイ最後の夜」を過ごすには、そこがいいと私は思った。
 バーに入ると、角のステージで誰かが「虹の彼方に」を歌っていた。群衆は主に超短髪のレズビアンらと、酔ったご婦人ら。どこにでもある光景だった。

 ヴィンスという年配のアフリカ系の男が、私のそばに来た。雑談の中で、彼はそれまでの人生を話してくれた。ヴィンスは宗教的な家庭に育った。母親に(ゲイであることを)カミングアウトすると、「神様が解決して下さるわ」と言われたという。
 彼は「祈りの力」でその「衝動」に勝利するよう、所属教会から追い立てられた(そして勝利したように思われた)。彼は「独身者の夕べ」で将来の妻に出会った。そして5人の子供をもうけた。
「でも俺はずっとゲイだったんだ」ヴィンスは言った。「俺はいつも男性の魅力に惹きつけられていたんだよ。それが去るように、祈って期待したけれどね」
 でもそれは去らなかった。結局、彼は全てを妻に打ち明けた。そして離婚した。彼自身はもっと別の方法、偽らなくて済む方法、女性の人生を破壊しなくて済む方法を取りたかったけれど。
 彼はそれで信仰を失ったという。

・水曜日

 朝、ミシシッピ銀行の周りをランニングすると、もうカンファレンスにチェックインする時間だった。
 会場であるノースウエスタン大学は、テレビ番組のロケ地みたいだった。完璧に刈られた芝生、美しい湖、葉の生い茂った木々。でもそこに集まっていたのは、ビクビクした顔つきでスーツケースを転がす若者たちの群れだった。
 登録は本館でやっていた。エクソダスのTシャツを着た笑顔のスタッフたちが案内してくれている。私の周りは明らかに全員ゲイだった。みんな黙り込んでて重苦しい。なんとなく「ゲイ・プライド」の登録みたいだった。プライドなんてどこにもなさそうだったけれど。

 私の部屋は寄宿舎だった。4人部屋だ。1人は20代のアジア系のジミー。彼はプロテスタントの両親の養子になるまで、カトマンズの路上で育ったという。ジミーの握手はとても弱々しく、ノロノロしていた。エクソダスに2倍の料金をふんだくられたんじゃないだろうか。
 もう1人のルームメイトもいた。ビルだ。彼は元海軍みたいな角刈りの年長者で、いかにも屋外活動が長かったような肌をしていた。
 と言っても本当は海軍兵でなく、自由気ままな身分のようだった。ビルは親子三代、同じ問題で葛藤しているんだと打ち明けてくれた。彼と彼の父親、そして彼の息子はみんな「不品行」を犯したという。ビルはその代償として27年間、結婚生活を送っているそうだ。
 もちろん、ここに集まっている他の大勢と同じく、彼はゲイになろうと願ったのではない。生れつきそうだったのだ。しかしそれは彼の宗教とは折り合いが悪かった。ビルにとって聖書の言葉は絶対だったという。だからその性的指向に沿った行動をする瞬間、神の律法を破っていると、彼は感じずにいられなかった。
「ここはまさに、自分自身を明け渡して平和を見出すことができる場所だ」彼は言った。「君たちと一緒にね」

 私たちは早めの夕飯をとるため、ビリー・グラハム食堂に行った(ビリー・グラハムとはここの元校長で、後にテレビ伝道者となった人物だ)。午後4時半だった。
 あたりを見回して驚いた。ビルや私のような年配者はわずかで、ほとんどが若く美しい十代後半から二十代前半の青年たちだったからだ。目のやり場に困って、ほとんど床を眺めるしかなかった。妙に悲しかった。

 それからカンファレンスホールに向かった。ビルが前列の席を確保してくれていた。夕方の部がカッコいいバンドの賛美と祈りで始まった。私は時差ボケだったけど、ノリノリになって手拍子を打った。
 それから真面目なのが始まった。アラン・チェンバーズの演壇だ。彼はここ10年エクソダス・インターナショナルの代表をしていて、演説にも精通している。彼は1991年にゲイであることを「やめた」という。以来、体に刻まれた(ゲイであるという)メッセージを、彼の脳は完全に忘れてしまったようだった。
 アランの紹介で1人のスピーカーが登場して、また雰囲気が変わった。今度は宗教っぽい奇抜なショーというより、断酒会(アルコール依存症の自助グループ)みたいになった。
 そのスピーカーの物語はこうだった。彼は父親に愛されなかったせいで「男らしさ」が大嫌いになり、結果的にゲイになった、という。それは論理的じゃないと私は思った。けれど他の皆はウンウン頷いている。「男らしさ」を手に入れれば自由(ストレート)になれるなんて、そんなはずはないだろう。いずれにせよ彼はまだ「同性(Same Sex)に魅力を感じる(Attraction)状態(略すとSSA。病気みたいだけど)」に甘んじている。でも「キリストを通して、そのような行為からは自由にされています」だそうだ。

 出席者らはあたたかい拍手を送ったけれど、私には、彼がまだまだ危なっかしいアル中患者みたいに見えた。なぜって、彼自身がこう言っていたから。「24時間365日、悲鳴をあげ続けるその『衝動』を、私は何とかしなきゃならないんです」
 それのどこが自由なんだろうか。生き地獄にハマっているとしか思えない。

 それはともかく、またバンドが出てきて、賛美を始めた。私はホッと一息ついた。他の皆は大はしゃぎだった。
 そしてまたアランが登壇して、とんでもない爆弾を投下した。彼は難しい顔でこう言ったのだ。
「はっきり言うけど、治療法はないんだ」
 気まずい沈黙が流れた。おいおい、そんなことパンフレットに書いてなかったぞ?

 アランは続けた。要は治療(という行為)でなく、「条件付け」が全てなんだ、と。彼自身もその方法を通して女性と結婚し、子供をもうけることができたという。今彼はこう考えている。「私の20年間に及ぶ葛藤は、実は神からのギフトだったんだ。そして私がゲイであることは、1日として変わらなかったんだ」
「条件付け」と彼は言った。それが彼らのキーだ。アメやムチを使い分けて、あなたを「あなたでない何か」に変えてあげましょう、ということだ。だったら私の母の方が、もっとうまい名前をそれに付けるだろう。「洗脳」だと。

訳者注

「条件付け」とは、「パブロフの犬」の実験で有名な、被験者のある行動を人為的に発現あるいは抑止させるための心理的手法です。映画『時計仕掛けのオレンジ』では主人公がこれを施され、強制的に「暴力を振るえない人間」にさせられました。もちろんそこまで劇的な効果が実際にあるかどうかは疑問ですが。

・木曜日

 早朝のランニング中、私はちょっと気味の悪い光景に気づいた。年配の太鼓腹の男たちが、若くてハンサムな青年たちに付き添って、キャンパスを歩いていたのだ。太鼓腹たちはカーキ色の半ズボンで、茶色い小さなケース(聖書なんかが十分入るヤツだ)を持っている。
 男たちは、影響を受けやすい若い魂たちに、ユートピア主義的かつ禁欲主義的な説教をしていた。若者たちが自ら世界を探求しようとする前に。それは青田刈りと言うか、若者たちを餌食にしているように見えた。

 寄宿舎に戻ると、新しいルームメイトに会った。ロブだ。デラウェアで教師をしている25歳で、昨夜遅くに着いたという。他の大勢と同じく、ロブもいたって普通に見えた。彼がゲイだとは(またクリスチャンだとは)誰も思わないに違いない。

 今日の最初のセッションはクリストファー・ユアンだった。彼は元ヤクの売人で、ゲイだった。彼はその経歴を少なくとも恥じてはいなかった。
「独身でいることは神からの賜物です」彼は自信満々でそう言った。「ゲイ(同性愛指向)の反対は、異性愛指向ではありません。それは聖さです」
 その日はどのセッションでも「独身の賜物」について語られた。独身でいることはそんなに悪くない、と。あるスピーカーはそれを「信仰深い」とさえ言った(そこで熱狂的な拍手が起こった)。私はすぐに気づいた。今日のレッスンは「俺たちには孤独な人生が待ってるぜ」みたいなものなんだと。年に1回、ここに集まって皆で連帯意識を感じる以外は、私たちは孤独なんだと。私はウンウン頷いている頭ばかりの室内を見回して、泣きたくなった。

 次に登壇したのはリッキー・シュレットという牧師だった。彼は、ゲイであることの責任は私たち自身にある、と言った。
 彼が示す「科学的と思われるグラフ」によると、3.5%の人間は、生れながらに「繊細」だという。ということは残りの96.5%は「粗暴」とも言うべきカテゴリーに入るらしい。そして「繊細」な子は、幼少期に「粗暴」な子たちと適切な人間関係を持てず、それゆえ思春期の頃にゲイに変わるのだ、と彼は主張した(つまり、繊細である私たちが悪いのだ、と)。
 ゲイの人々は(繊細ゆえに)よくアイコンタクトをすると言われていて、そういう「弱々しさ」は、彼に言わせれば「悪魔の働き」だそうだ(なぜアイコンタクトが「弱々しい」のかは不明)。

 でもそれは、私たちの落ち度ではない。それに解決の糸口はある。育児カウンセラーのメアリー・デマスは言う。「子育てのマニュアルがあったらいいのに、と親は言います」そして頭の上に聖書を掲げながら「でも彼らはすでに持っています」

・金曜日

 この朝は、ゲイに関する神の言葉を学ばなければならない。私が思うに、聖書にそのような記述はない。けれどジョナサン・ベリー(イギリスのトゥルー・フリーダム・トラストの主事)はそうは認めなかった。
 挫折の連続だった20年間の後、ゲイであることを放棄して、ジョナサンは「恵みに満ちた独身生活」を手に入れたという。
 続いて彼は、「創造論」について長々と熱弁しだした。私は疑い深い目でビルを見た。
「有名な話だけど、放射性炭素年代測定法(ざっくり言って進化論の根拠の一つ)には欠陥があるんだ」ビルは言う。「地球はまだ六千歳なんだよ」
「だとしたら恐竜はどうなる?」
「大洪水で絶滅したんだよ」
 ジョナサンはわめき続けている。彼の説をサポートしてくれる、都合のいい聖書箇所だけ「いいとこ取り」して。その中には、創世記の「女性は男性の助け手である」という記述もあった。でもそれだと、彼自身が独身なのを説明できないのでは?

 さて性教育の時間になった。タイトルは「いかに性欲を排除しつつ愛情を持つか」だった。その答えは、ジョナサンによるとシンプルだった。「聖霊が私の欲望を覆い尽くして下さる。だから私は欲望なんて感じなくなるんだ。そのことがわかって、神に3回叫んだよ」
 はい、性教育終わり。聖霊が何でもインスタントに解決してくれるそうだ。

 夕方の賛美礼拝が始まった。その頃には私はどの曲もわかるようになっていた。私は礼拝そのものには大変感銘を受けていた。
 夕方のセッションで、私たちは自分自身の姿を(自分が思う通りに)会場の壁に描いた。そしてその絵の「痛み」のある部分を、色ペンでマーキングした。まわりのどの顔も不幸せそうだった。ある顔はピエロのように笑っていた。ある顔は縄で首を吊っていた。誰もが惨めなセルフイメージしか持っていなかったのだ。

 参加者たちの(悲惨な)話の数々を思い出しながら、1人で寄宿舎に戻った。私はすっかり気分が滅入っていた。毎年大勢が、問題の解決を求めてこのカンファレンスに繰り返し参加している。その気持ちはわからないではない。しかし、ゲイ嫌いが何と主張しようとも、少なくとも同性愛指向という性衝動そのものの存在は、私たちの落ち度ではない。だからそれを受け入れて、同じゲイのパートナーとともに充実した人生を送るという選択肢だって、選んでいいはずだ。そうではないだろうか。

・土曜日

 コースの最終日を迎えた。このカンファレンスの偽りが、少し見えてきた気がする。
 昨夜遅く、私はGrindr(いわゆるゲイの出会い系アプリ)で、すぐ近くに3人見つけた。でも深夜の門限を過ぎていたから、連絡するのは不可能だったと思う。

 ワークショップで、私はトムの隣に座った。彼は22歳のブロンドで、南アフリカから来ていた。トムはすでに、(同性愛指向から異性愛指向への)「変換」のための特殊な施設に住んでいるという。彼のことを心配した両親が、金銭的にサポートしているんだと。初めは冗談かと私は思ったけれど、トムは真面目だった。「僕は聖書の全てを信じています」澄んだ青い瞳だった。「同性愛は罪なのです」

 しかし、新しい友人たちと外の芝生に座っている時、私は率直に尋ねてみた。「みんな本当に一生独身で過ごすつもりなの?」安心したことに、皆の答えはノーだった。
 ゲイの否定や独身の強要がなければ、このカンファレンスは、私たちが自己受容するのに役立ったと思う。将来的にどんな決断をするとしても、自己受容な大切なことだと思うから。

 しかし会場に戻ると、聞き飽きた(そしてありきたりな)文句が続いていた。ゲイは下品で、刹那的で、憎むべきものだと。薬物乱用の病気みたいなものだと。「全てのゲイが小児性愛者というわけではないけれど」などとあるスピーカーは言った。ありがちな固定観念をまくしたてるだけだった。
 そして再び、独身の重要性が強調されるのだった。「地球上で最も重要な男性(キリストのこと)だって、たった1人で歩いたんだから」
 今夜の説教の終わりに、ミニスターはこう叫んだ。
「あなたがたは荒野の時間を過ごさねばならない。なぜなら(同性愛という)罪を悔い改めなければならないから。暗闇の時間、孤独な時間に備えなさい!」
 はい、おやすみ。あなたもよく休んで。

・日曜日

 私は妙な解放感とともに目覚めた。
 私は「治った」のか? もちろん違う。むしろ以前に増して、自分がゲイであると感じられた。いずれにせよ、今までにないキャンプ三昧な1週間が終わった。

 しかしそこで見聞きしたことの酷さにかかわらず、私は落ち込んだり怒ったりしていなかった。エクソダスの人々は純粋に、かよわい魂を助けていると信じていた。でも講義はどれも、ゲイ嫌いの妄想と断罪的なメッセージに満ちいていた。それに少なからぬスピーカーたちは「ダークサイドからの案内人」に思われた。

 それでも参加者の多くは幸福を感じていた。別れ際、何人かが以前より同性愛指向を抑えられるようになったと話していた。抑えるのでなく、それを完全に放棄するよう警告されていたはずだけれど。
 彼らの多くは、ゲイであることを受け入れるくらいなら、自殺を選ぶという。しかし残りの人たちは、ゲイであることを否定されるくらいなら、信仰を捨てるという。まったく正反対の反応がある。つまりはそのような二極化が、このカンファレンスのもたらす結果なのだった。

 けれど、我々ゲイは、どちらか一方だけを選ばなければならないのだろうか。ゲイを捨てるか、信仰を捨てるか、そのどちらかなのだろうか。両者を結ぶ妥協点はないのだろうか。両者が納得できる、より良い目的のためのコミュニティ作りはできないのだろうか。
 聖書は英知と、豊かな人生への指針で満ちている。同性愛指向を否定するための書物ではない(しかしカンファレンスにおいては、残念ながらそのように利用されていた)。
 さて、カンファレンスでは散々「独身でいること」が強調されていたけれど、神ご自身はこうは言わないのだろうか?
「人が1人でいるのは良くない」と。

記事中の一部の名称は、個人情報保護のため変更してあります。

2017年8月10日木曜日

「決心」したことを続ける方法

 前回、季節のイベントで「決心」したことがあってもしばらくは我慢した方がいい、という話をしました。

→前回の記事はこちら。

 2泊3日のキャンプとかカンファレンスとかで感動して、「これから毎日◯◯しよう」と決心しても、長続きしないケースが非常に多い。それはひとえに、「特殊な環境」で体験したことを、そのまま日常生活に持ち込もうとしているからだ。その前に本当にできるのかどうか、継続できるのかどうか、よく考えてから「決心」した方がいい。と、いうような話でした。

 今回は、それをプラスの方向に転じて、じゃあどうしたら継続できるのか、考えてみます。6つの段階にまとめてみました。

・「決心」したことを続けるには① よく休む

 何かを「やろう」としている時になんで休むんだ、と思うかもしれませんが、私たちには休息が必要です。毎日7~8時間寝てれば十分かもしれませんが、時にはもっと長く休んだ方がいいこともあります。特に何かを始めようとする時は、よく休んだ方がいいと私は思います。

 たとえば仕事をしている人は、多くは朝から夕方まで働くと思います。長い人はもっと長いでしょうし、変則的な人もいるでしょうが、とりあえず午後7時には帰宅するとします。それから食事して入浴して、家族がいるなら家族の時間を持つとか、テレビや本やネットを楽しむとか、その他の用事を済ませるとか、人それぞれでしょうけれど、何だかんだで0時くらいには寝るんじゃないかと思います。
 ここで提案なのですが、何日かで良いので、帰宅したらできるだけ早く寝るようにしてみて下さい。たとえば7時に帰宅したなら、最低限することだけして、8時にはベッドに入るのです。そして寝ましょう(早すぎて眠れないかもしれませんが)。すると朝まで10時間以上眠れることになります。それだけ休息して朝、体の調子がいいなあと思ったら、疲労が溜まっていたということです(もちろん個人差はあります)。これを数日間続けるだけで、普通に休日を1日過ごすより体が快適になることがあります。

 そうやって心と体をスッキリさせてから、その「決心」についてもう一度考えてみましょう。たぶん違った印象を持つと思います。
 要は、人間何かを始めるには、体力や健康がすごく大切だということです。

・「決心」したことを続けるには② しばらく様子をみる

「〇〇をしたい」と思っても、すぐには始めないことをお勧めします。2~3日とか1週間とか、あえて何もしないで様子をみてみたらどうでしょうか(その間に、上記の休息を実施するのもいいでしょう)。〇〇に単に興味があった「だけ」なら、数日でその興味を失うかもしれません。そして数日で冷めてしまうものなら、その程度だったのです。しかし数日たっても「やりたい」という思いが消えないなら、あるいは以前よりも増しているなら、それは始める価値があるのかもしれません。
 もちろん何かを始めるには「興味」が大切です。しかし「興味」だけでは続かない、ということです。

 誰が忘れましたが作曲家が、「使えそうなフレーズがふとひらめいても、あえてメモらないでおく」という話をしていました。それきり忘れてしまって、もう2度と思い出さないフレーズなら、大したものではなかった。でもまた思い出すなら、あるいは何度でも頭の中に鳴り響くなら、それこそ作り出す価値がある。というような話だったと思います。
 それと同じです。

 要は、動機は何なのか、ということです。
 動機がただの「興味だけ」なのか、それとももっと切実なものなのか、案外自分ではわからないものです。でも少し時間をおくことで、それが見えてくることがあります。

・「決心」したことを続けるには③ 毎日の生活を見直す

 さてよく休んで、様子をみて、それでも「始めよう」と思ったなら、次の段階に入っていいと思います。

 では毎日の生活を見直してみましょう。
 たぶんどんな人にも、毎日優先的にしなければならないことがあると思います。たとえば仕事とか、家事とか、育児とか、介護とか、学業とかです。私たちには毎日24時間ありますが、それらを行うのに多くの時間を費やしていると思います。そして残った時間を「余暇」として利用しています。

 さて「余暇」は、どれくらいあるでしょうか。当たり前ですが、新しく〇〇をするには、そのための時間を確保しなければなりません。ただ「やろう」と思っただけでは、物理的にできないのです。
 たとえば、仕事から帰ったら食事して入浴してテレビを観て読書してネットをして0時になったら寝る、という生活をしている人は、その中のどれかを削って、時間を作らない限り、〇〇はできません。
 知り合いに、朝7時前に出勤して深夜0時過ぎに帰宅するという生活を月曜日から金曜日まで送っている人がいますが、彼が「毎日1時間ディボーションしよう」と思っても、それはなかなか難しいです。というか無理でしょう。

 要は、無理なことはできない、ということです。初めは気合で頑張れるかもしれませんが、無理がかかっている以上、長くは続きません。いつか息切れしてしまいます。息切れしないように走るのが、続けるコツです。

 よく継続できない理由を「自分の意思が弱いから」とか「自分に忍耐力がないから」とかと言う人がいます。けれど意志とか根性とかの問題でなく、そもそも無理だった、負担が大きすぎた、という場合が少なくありません。無理なものは無理なのです。

・「決心」したことを続けるには④ 環境を整える

 次に環境を整えます。始めたい〇〇によりますが、必要な道具があるなら揃えるとか、部屋のレイアウトを変えるとか、とにかく「やりやすい」ように環境を整えることをお勧めします。

 たとえばですが毎日ランニングをしようと思ったら、ウェアやシューズを取り出しやすい位置に置いておくとか、スポーツ用の気に入ったイヤホンと音楽を揃えておくとか、帰ったらすぐウェアに着替えるとかです。とにかく、始めるまでのプロセスを短縮します。「すぐにできる状況」と「すぐにはできない状況」では、「やりやすさ」がえらく違いますから。

 あるいは、これは私の場合ですが、ブログはけっこう外で書いています。当ブログの記事の多くは、スタバとかタリーズとかマックとかモスとかで書かれたものです。これは自宅で部屋に1人だと、なかなか集中できないことが多いからです。そういう自分の傾向がわかっているので、あえて人目のある所に行くわけです(最終的には自宅で仕上げるのですが)。

 これはほんの一例です。そのようにして、自分なりに「やりやすい環境」を整えていくということです。

・「決心」したことを続けるには⑤ 目標をつくる

 何かを習慣的にするうえで、目標はすごく大切です。
 そのものの種類にもよりますが、「ここまで達しよう」とか、「これができるようになろう」とか、何かしらのゴールを設定しておくことです。行先がなく、毎日漫然とやっていると、どうしても飽きてきますし、モチベーションが下がってきますから。
 音楽教室なんかだと、定期的に発表会など企画して、生徒に人前で日頃の成果を披露させたりします。 あれはモチベーションを維持させるのと同時に、自分がどこまで達したかを見極めさせるためです。
 それと同じような意味合いで、日々の中にちょっとした目標をつくっておくと良いと思います。

 ただ目標と言っても、難しいものや大それたものでなくていいです。簡単ではないけれど、しばらく頑張れば達成できる、くらいの目標でいいです。いわば中継点みたいなものです。それをクリアしたら次へ、また次へ、と徐々に向上していけるようなポイントを、自分なりに設定し続けていくわけです。

 目標設定の注意点は、①ある程度はっきり期間を決めることと、②簡単に判定できることです。すなわち「いつまでに」「ここまで」と決めることです。期間の定めがないと、やはりダラダラしやすくなりますから。また目標がハッキリしないと、できたのかできなかったのか、判定できませんから。
 たとえば「○○で充実した時間を過ごす」みたいな目標にしてしまうと、どうなったら「充実した」と言えるのか、よくわかりません。判定できないわけです。そうでなく、たとえば英語検定の勉強をしている人でしたら、「今年の11月に2級を合格する」という目標にすれば、判定は簡単です。

・「決心」したことを続けるには⑥ 時々評価する

 さて、以上のプロセスで〇〇を継続することができたら、時々評価してみます。
 評価のポイントはいくつかありますが、たとえば、

「このままで目標を達成できそうか」
「自分は疲れすぎていないか」
「これは負担が大きすぎないか」
「自分は少なからず楽しんでいるか」
「このやり方でいいか、他の方法はないか」
「何か改善できる点はないか」

 といったあたりでしょうか。そして適宜修正していきます。

・まとめ

 私のお勧めは以上になります。もちろん一つの方法にすぎませんので、当てはまらない人もいるでしょうし、もっと良い方法があるかもしれません。いずれにせよ、「継続」するのはその人自身なので、一番自分に合った方法を、自分自身で探していくしかありません。

 最後になりますが、「どうしてもやる気が出ない時」が、誰にでもあると思います。私にもあります。そういう時に私がどうするかと言うと、潔く、何もしません。と言っても後ろ向きなことでなく、「何もしない」という方法を積極的に選ぶ、という感じです(詭弁みたいですが)。そして寝ます。人間疲れていると頑張れないですし、頑張ってもあんまりロクなことになりませんから。そういう時はよく休んで、スッキリした方がずっといいです。
 あと、あまり大したことを求めません。たとえば「毎日〇〇する」という場合、一日一日の〇〇にそれほど高いクオリティを求めたら大変なことになります。そんなに時間を割けるわけでもありませんし。だから程々でいいんだ、と割り切ることも大切かなあと、私は思います。

 というわけで何かを決心して継続したい皆さん、一緒にコツコツやっていきましょう。

2017年8月4日金曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第55話

「ではこの集会のスペシャルゲスト、メボ・ルンド先生を紹介します」
 溝田牧師がそう言って指をパチンと鳴らす。スクリーンにルンド師の写真がでかでかと映し出される。あらかじめ決められた合図(牧師の指パチン)に従って、キマジメくんがパワーポイントを操作したのだ。こちらに向かって微笑むルンド師の横に、何行かの文字列がシュッと浮かぶ。師の経歴を簡単に記したものだった。
「えー、メボ・ルンド先生は・・・」溝田牧師が説明をはじめる。

 ルンド師はアメリカ・インディアンの血統で、幼い頃からクリスチャンだった。あるとき大病を患い、死の淵をさまよった。けれど奇跡的な「癒し」を体験した。以来「癒し」の賜物が開花して、病人に手を置けば癒されるようになった、という。それを神からの使命だと感じたルンド師は、「癒しのミニスター」として働くようになった。すでに全米で、多くの人々がルンド師による癒しと奇跡を体験している、と牧師は紹介した。

「ハレルヤ皆さん、主は生きておられます!」溝田牧師が笑顔で言う。すかさず多くの「アーメン」が返ってくる(一応伝道集会だから新来者がいるかもしれない、アーメンのような専門用語は使わない方がいいのでは、という配慮は当然ながら皆無であった)。
「ではさっそく、ルンド師を講壇にお呼びしましょう。皆さん盛大な拍手を!」
 会堂中を拍手が包む。その中でルンド師がゆっくり立ち上がる。振り向いて会衆に手を振る。そして一歩一歩、足場を確かめるように進み、ステージに上る。ルンド師が講壇に着くまで、拍手は鳴り止まなかった。

 そのときキマジメくんは、何やら奇妙な音を聞いた。それが人の声だと気づくのに、しばらくかかった。拍手の音に紛れて、小さく聞こえてくるのだ。発信源はどうやら例の4人組だった。彼らは一様にステージに手を伸ばし、(後ろ姿ではあったけれど)何やら唱えているようだ。周りの人たちが遠慮がちに奇異の目を向けている。4人は体を左右に揺らしながら、お経のようなものを唱えているらしい。それがお経でなく「異言」であることに、キマジメくんはしばらく気づかなかった。
 どうやら講壇に上がるルンド師のために、彼らは「助祷」しているようだ。

 何かの本で読んだ、アメリカのメガチャーチの話をキマジメくんは思い出した。そこの日曜礼拝で、牧師がメッセージをしている間、祈祷室にこもってひたすら「助祷」する人たちがいる、という話だ。「メッセージは霊的戦いだから、祈りで牧師をバックアップしなければならない」というわけで、「牧師のメッセージ中の助祷係」みたいな役割があるのだとか。あの4人はルンド師のために、それを実践しているということか。
 そういう霊的意味があるとわかると、キマジメくんは感心せずにいられなかった。あの4人組、第一印象は(正直言って)悪かったけれど、ルンド師の集会の常連だというのは本当らしい。ということは彼らも「癒し」を沢山見てきたのだろうか。この日本で大々的に「癒し」が行われたと聞いたことはないけれど、もしかしたら自分が知らないだけなのかもしれない。ぜひ彼らの話を聞きたいものだ(とキマジメくんは思った)。

 さてルンド師が講壇につき、持っていた大きな聖書を開いて置くと、拍手が完全に止んだ。急にシンと静まりかえる。皆ルンド師の第一声を聴き逃すまいと、固唾をのんで見守っている。4人組の「助祷」も一気にトーンダウンして、ほとんど聞こえないくらいになった。でもやはり手を小さく挙げて、体を軽く左右に揺らしているので、「助祷」自体は続けているらしい。もしかしてメッセージ中ずっと祈っているのだろうか。

 その「助祷」の存在にルンド師が気づいているのかどうかわからないけれど、彼は落ち着いた声で話しはじめた。
「ミナサン、コンニチワ」(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年8月2日水曜日

季節のイベントで何か「決心」したくなっても、しばらく我慢してみましょう

・打ち上げ花火のような、イベントごとの「決心」

 さて8月に入りました。
 8月というと、教会関係のキャンプとかカンファレンスとかコンベンションとかセミナーとか(呼び名はどうでも)、わりと大きめな、数日にわたって行われるイベントが多い月です。学校の夏休みとか職場のお盆休みとかがあるのも関係あるでしょうね。以前に比べて、超教派的な集まりは減ったように思いますが。

 今回はそういう「季節のイベント」に参加するうえでの注意点みたいなものを書きたいと思います。

 たぶん教会企画のキャンプとかで、これから海や山へ行く予定の方もいらっしゃると思います。最近はクラゲやハチだけでなく、アリとかヘビとかの害虫・害獣被害が話題になっていますから、そのへんの対策も必要みたいですね。まさか「パウロがヘビに噛まれても大丈夫だったから自分も大丈夫だ」みたいな勇者はいないと思いますが(たぶん)。
  ところで、この手の大きなイベントで毎回、何かの「決心」をする人が少なからず見受けられます。私が知っているケースでも、

「キャンプを通して洗礼の決心が与えられました」
「このカンファレンスでディボーションの重要さを知りました。これからは毎日します」
「今回の学びを通して、毎日30分賛美するよう導かれました」
「これから毎日最低1人に伝道していきます」

 みたいなのがあります。
 でも季節のイベントで「毎日〇〇します」と決心して、一ヶ月後にまだ続けている人は、ほぼ皆無です。「毎日〇〇」している人というのは、もともとそういうイベントと関係なくやっています。
「洗礼の決心」にしても、結局どこ吹く風、みたいになる人が少なくありません。

 いずれにせよ、「決心」が続かない、ということが非常に多く見られます。打ち上げ花火みたいに、上がって落ちて、それで終わりです。
 私のこういう指摘に「そんなことはない」と反論した人がいましたが、なるほど全員が全員そうなのではないでしょう。その人自身は続かない部類でしたが。

 なぜでしょう?
 私が思うに、それらのイベントが「日常生活を離れた環境」「特殊な環境」で行われるからです。

・「特殊な環境」で起こること

「特殊な環境」というのは、なにも海や山などの大自然だけではありません。極端な話、教会に3日間寝泊りするだけでも「特殊な環境」になります。あるいは寝泊りしなくても、(セミナーならセミナーで)3日間それ「だけ」に集中するなら、「日常生活を離れた環境」になります。


 要は、普段していること(仕事や家事や学業など)を「しない」で、ある一つのこと「だけ」に集中する環境です。
 海辺でのキャンプを例に考えてみましょう。

 ある都会の教会が、夏の海で2泊3日のキャンプをするとします。学生は夏休みで、大人は仕事を休んで参加します。専業主婦の方は家を3日間空けるためにアレコレ片づけてやってきます。
 さてキャンプが始まると、そのプログラムに沿って行動します。礼拝やセミナーが何度かあり、その間に食事とか自由時間とかあると思います。自由時間は海に行ってもいいでしょうし、ゴロゴロしててもいいでしょう。普段できないおしゃべりに花を咲かせるのもいいですね。食事は宿泊施設によりますが、ここでは上げ膳据え膳ということにします。すると主婦の方々は普段の家事からほぼ完全に解放されます。小さいお子さんがいたらその世話があるとは思いますが。

 というような環境ですと、普段できないことができるようになります。たとえばお風呂にゆっくり浸かるとか、昼寝するとか、クリスチャン的なことで言えば聖書をじっくり読むとか、「ディボーション」にありえない時間をかけるとか、海辺を散歩しながら賛美するとか、そんな感じです。
 礼拝もセミナーも、他のことを気にせず集中できます。日常的でない環境なので、特別力が入るかもしれません。礼拝が遅くに終わったとしても、それから家に帰る手間がなく、ただ部屋に戻るだけです。
 だからイロイロなこと一つ一つに、普段かけられない時間をかけ、普段できない集中を注ぐことができます。

 私が言う「特殊な環境」とは、そういうものです。
 くどいようですが、これは夏の海でなくても起こります。

 その中で、たとえば「やっぱり聖書っていいなあ。これから毎日3章ずつ読もう」とか、「ディボーション最高だ。毎日1時間はやろう」とか決心するかもしれません。あるいは礼拝の中で、牧師に「毎日1時間祈れば人生変わります」とか言われて「その通りだ」と思うかもしれません。
 でもそれは全部、「特殊な環境」だからこそです。

 その「毎日〇〇しよう」という決心をもって、日常生活に戻ります。また普段通りの、仕事や家事や学業が待っています。すると忙しくなり、余裕がなくなり、気分が変わってきます。キャンプでたしかに体験したはずの「感動」も、徐々に(あるいは急速に)消えていきます。すると「毎日〇〇」なんて無理だなあと気づくわけです。たとえば聖書を毎日3章読むなんて、どれだけ暇人なんだって話です。

 というわけで、あるイベントを通して決心したことが、一ヶ月後にはもう忘れられている、という状況になります。
 でもそれは誰が悪いのでもありません。ただ「そういう特殊な環境にいた」だけです。

・日常生活に持ち込めない特殊さ

 キャンプやカンファレンスやコンベンションやセミナーそのものが悪いわけではありません。それはそれで良い機会になるでしょうし、何かのキッカケになるかもしれません。ただそれが「特殊な環境」であり、そこでの感覚をそのまま日常生活に持ち込むことはできない、と知っておくべきです。両者は時間の流れが違い、集中の度合いが違うのです。

 あるクリスチャン・キャンプで「徹夜祈祷会」なるものを体験した人がいました。夜の10時から皆で礼拝したり祈ったり話し合ったり、というのを朝の6時くらいまで続けたのです。それはそれで特殊な、良い経験だったようです。「ぜひ自分の教会でも月に1回くらいやりたい」と言い出しました。でも結局、断念しました。一晩徹夜するには、どこかでその分の睡眠を確保しなければならず、しかし普段の生活にそんな余裕はない、と気づいたのです。当たり前と言えば当たり前ですが。

だから何かのイベントに参加して「これは素晴らしい」「これは毎日やりたい」と思ったことがあっても、しばらくグッと堪えて日常生活に戻り、その中で本当にできるのかどうか、やるべきなのかどうか、改めて考えてみた方がいいと私は思います。
 でないと「決心したのに続かなかった」「言うだけ言ってやらない」みたいなそしりを受けることになってしまいますから。それは本人も辛いですし、まわりの人間もなんだか居心地が悪くなってしまいます。

 これからキャンプなどのイベントに参加される方には、そのへんのことをちょっと考えて頂けたらなと思います。

・関連記事

 ちなみに去年も同じようなテーマで書いた記事があったので、下記にリンクを貼ります。
 若干きつい言い方をしていますけれど、内容的には本記事より突っ込んで書いています。

・クリスチャンの「キャンプ」の弊害