2017年8月24日木曜日

「話し合い」という名の虐待

・「話し合い」をさせられる子供たち

先日SNSで見た、「ブラック吹奏楽部」の話を引用します。

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なぜか先生が突然キレて職員室に帰る
  ↓
みんなで何が悪かったのか話し合う
  ↓
職員室に謝りに行く

という話を実際にも聞きます
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 これを見て強烈に思い出したのが、先日も紹介したA牧師の姿です。「子供を教会に取られる」現象の彼です。
 A牧師もこれと似たようなことをやっていました。と言っても、突然キレて出て行くわけではありません。A牧師は、子供たちによく「話し合い」をさせていました。

 たとえば。
 子供たちのセルグループの中に、イマイチ元気のないグループがありました。牧師はそこのメンバー全員を集めて、こんなふうに言いました。
「君たちはどうも元気がないな。今の自分たちに何が足りないのか、よくよく話し合ってみなさい。そしてどう改善したら良いか、自分たちなりの結論を出して、報告しなさい」
 すると子供たちは会堂の隅で輪になって、膝を突き合わせて、話し合うわけです。元気なグループにはあって、自分たちにないものは何なのか? どうしたら元気になれるのか? 「元気がない」のは「悪いこと」だとすでにインプットされているので、「このままじゃいけないんだ」という危機感をもって話し合います。

 それで1時間とか2時間とかかけて、一応の結論を見つけます。その結論を持って牧師のところに行くと、こんなふうに言われます。
「これだけ時間をかけて話し合って、それだけ? もっと他にもできることあるよね? もう一回、必死になって話し合ってきなさい」
 というわけで、再び膝を突き合わせて話し合います。今回は「もっと何か考えなきゃマズイ」というプレッシャーが更にかかっています。

 と、こんなようなことが、牧師が「よし」と言うまで続くのです。A案を出してダメと言われ、B案を出してダメと言われ、C案を出してダメと言われ・・・とにかく牧師が納得する案を出すまで、ずっと続くわけです。
 これ、冒頭のブラック吹奏楽部の「何が悪かったのか話し合って、先生に謝りに行く」という話にソックリだなあと思いました


・何のための「話し合い」?

 こういう「話し合い」は、子供たちの成長とか改善とかのためではありません。たしかに話し合い自体には、子供たちにとって益な面もあるでしょう。でもその本当の狙いは、「牧師が意図した答えを子供たちから引き出すため」です。

子供たち「◯◯ですか?」
牧師「そうじゃないだろ」
子供たち「△△ですか?」
牧師「違う違う。よく考えなさい」
子供たち「じゃあ、××ですか?」
牧師「惜しいな。もう少し深く考えなさい」
子供たち「もしかして▲▲でしょうか?」
牧師「そう、それだよ。やっと見つけたね」

 この場合、牧師ははじめから▲▲へ誘導したかったのです。子供たちに自由に話し合いをさせて、自分たちなりに結論を出させたように見えますが、実はどこにも自由などありません。子供たちはうまい具合に誘導されて、自分で自分を狭い所に閉じ込めてしまったのです。

 ブラック吹奏楽部の子らも、これと同じようなロジックで追い込まれたんだと思います。すなわち「自分たちの何かが悪かったんだ」というのが最初に前提として置かれるので、もう自分たちの「欠け」を探すしかなくなっているのです。先生の方がおかしいんじゃないか、という方向には考えられません。だから本当は何が問題なのかイマイチわからないのに、一応話し合って反省して、謝ってしまうのです。そして謝った時点で、先生は正しく、生徒たちが一方的に悪い、ということになってしまいます。

 要は、「話し合い」とは名ばかりなのです。

 子供たちは自分たちだけで一生懸命考えて話し合っているつもりですが、実は大人の手のひらでコロコロ転がされていただけなのでした。

・「話し合い」という名の虐待、あるいは洗脳

 このような「話し合い」をA牧師は多用していました。たとえば傍目にも仲が良くない2人の若者、BくんとCくんを呼んできて、和解するよう話し合わせます。「兄弟は互いに愛し合うべきだろう。なぜ君たちはそれができないんだ。この機会に、腹を割ってよく話し合いなさい」

 こう言われると、もう2人は形だけでも和解せざるを得ません。しかも、特別コレと言った理由がなく単にウマが合わないだけだとしても、何かしら「仲が悪い理由」を自分たちで見つけ出して(作り出して)、演出っぽい「和解」をやるハメになります。
 でも結局BくんとCくんの関係は、ほとんど変わりません。あまり仲が悪いと思われないような工夫がなされる以外は。

 こういうふうにして、子供たちは「クリスチャンっぽく振る舞う」のが上手になっていきます。

 でもこういう「話し合い」を利用して人をコントロールしようとするのは、ほとんど虐待か洗脳ではないかと私は思います。

 つくづく思うのは、指導する側の人間の重要性です。その人がどんな人物かで、指導される側の運命が大きく左右されてしまうからです。健全な成長へと至るのか、それとも単に都合よくコントロールされて終わるのか。
 皆さんを指導する立場の人間は、どんな人物でしょうか。どれだけあなたのことを考え、あなたがより良くなれるように、配慮してくれているでしょうか。それとも「成長」という名のもと、あなたを支配し、コントロールしていないでしょうか。あなたの人生は一度しかなく、今という時間はもう二度と帰ってこないのですから、他人にコントロールされて無為に過ごすことのないよう、ただただ願うばかりです。

2 件のコメント:

  1. 高田かやの「カルト村で生まれました」と「さよならカルト村」を思い出してしまいました。
    作者はヤマギシの村で生まれ育ったのですが、ヤマギシという組織の求める答えを出さないと大変だったのが見て取れます。子供のころは親から引き離され、子供だけで暮らすわけですが、子供たちはいやでも世話係の顔色をうかがっているしかなく、世話係の求める答えしか正解はないという生活だったそうです。

    新興宗教系プロテスタントの教会の大半は、ヤマギシのような出家コミューン型ではありませんが、子供たちのセルグループのA牧師は、どうみてもヤマギシの子供の世話係そのものです。出会ったのがたまたま新興宗教系プロテスタントだったから、コミューンには入らなかったわけですが、もしA牧師がヤマギシの生産物をたまたま買ったことが縁で特講に誘われたなら、きっとヤマギシに参画して世話係が立派に務まったでしょう(笑)。

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    1. コメントありがとうございます。
      高田かやさんの作品については未読なのですが、やはり新興宗教は、どこも同じようなことをしているものですね。なんか怒りを通り越して笑ってしまいそうです。当事者からすれば決して笑えない事態なのですが。

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