クリスチャンの「終末」の扱い方(地雷にご用心)・その2

2017年4月22日土曜日

キリスト教的終末論

t f B! P L
 クリスチャンの「終末」の扱い方、2回目です。
「終末」関連の記事を書くと、熱心な「終末信奉者」の方々から、あーだこーだ言われることが多いです。私がネガティブなことを書くからでしょうが、なんかムキーッて感じで、あまり論理的とは言えない(つまり感情的な)文句をぶつけられたりします。彼らは自分たちの信じている聖書解釈にケチをつけられると、よくわかりませんが攻撃的になってしまいますね。話し合おうとか歩み寄ろうとか、そういう寛容さが見られません(寛容でないクリスチャンって何だろう・・・)。
 そういう人たちは基本的に話が通じないので、私は相手にしません。

・「終末」について論じる理由

 私がこういった記事を書く理由は、上記のような「終末信奉者」を論破したいからではありません。そうでなく、それを盲信してしまっている人や、そういう教会やグループしか知らなくて集っている人や、集っているけれどどこか疑問を感じている人などに、「気づき」を提供するためです。聖書にはいろいろな解釈があって、いろいろな考え方があって、正解は一つではないんだ、ということを知ってもらいたいです。そして少しでも視野を広げてもらい、自分たちの信じていることだけが全てではないんだ、という当たり前のことに気づいてもらえたら、と願っています。
 だからバリバリの「終末信奉者」は、最初から相手にしていません。彼らに何を言っても無駄だからです。

 ただ誤解のないように書いておくと、私は「終末」を否定していません。私たちが生きている間に「終末」が訪れる可能性も否定していません。また「携挙」さえも否定していません。
 しかしそれと同時に、「終末」が、私たちが一般的にイメージするような破滅的なもので「ない」という可能性と、携挙なんて「ない」という可能性も、否定していません。

 つまり私は、(そういう立場が許されるかどうかわかりませんが)聖書解釈においてできるだけニュートラルな立場でいたいと考えています。解釈が分かれている事柄については、明確にどちらか一方の立場に立つのでなく、いろいろな可能性をそのまま残しておきたいのです。調子がいいのかもしれませんが、現段階で自分自身がはっきり確信できていないことは、ちょっと保留にしておきたい、という感じです。

 それに正直なところ、「終末」がどうとか「携挙」がどうとか、私にはどうでもいいことです。何故なら、たとえ「終末」が近いとしても、「携挙」が近いとしても、私たちは今まで通り生活すべきだからです。今日も他者にできるだけの愛を示すべきだからです。それこそがキリストの願いだからです。「終末」とか「携挙」とか騒いで聖書を捏ねくり回すより、聖書を机の上に放り出して、誰かに会いに行く方が良いと私は思っています。

 明日世界が終わるとしても、今日リンゴの木を植えよう・・・。
 みたいな感覚です。キザでしたね。すみません(笑)。
(ちなみにこんなことを書いていたちょうどその時、当ブログ宛に同じような内容のコメントをいただきました。いやビックリしました。)

 もちろん、聖書をまったく読まなくていい、という話ではありません。ちゃんと勉強はすべきです。ただ、バランスが必要だと思うのです。

・「終末」よりも大切なこと

「終末」に関するキリストのシンプルな語りかけは、「惑わされないようにしなさい」の一言に尽きると私は信じています。つまり惑わす人が沢山いるということです。だからいろいろな「教え」に振り回されたり、右往左往したりしてしまうかもしれません。だからこそ「終末」とか「携挙」とかに心を奪われるのでなく、ただシンプルに、「キリストが何と言っているか」に注目したら良いと思います。そしてキリストの語りかけは、すごくシンプルなのです。

 たとえば単純に「キリストが生きたように生きたい」と願うならば、難解な神学や論議なんて全然必要ありません(全然というのは言い過ぎかもしれませんが)。困っていそうな人に声を掛けたり、疎遠になっている友人に電話したり、隣にいる人に何気なく話しかけてみたり、そいうようなことが、キリストの生き様を真似ることだからです。他者を省みないで「終末ガー」とか「携挙ガー」とかやってる人たちは自分たちを「聖書的」と思い込んでいるようですが、私に言わせれば「とんだ勘違い」なだけです。

 もちろん、神学的研究が必要なのも認めますけれども。

 何故私がこういう記事を書くかと言うと、「終末」や「携挙」を問題視しているからではありません。「終末」や「携挙」そのものはほとんど問題ではありません。そうでなく、「終末」や「携挙」を強調しすぎたり、確実なものと断定したり、何か素晴らしいもののように飾り付けたり、それを使って人を不安にさせたり、というような「扱い方」に、問題があるのです。そして私はそのことについて「だけ」書いているのです。

 前置きが長くなりました。
 では今回も、クリスチャンが「終末」を扱ううえで地雷になりそうな事柄について、紹介してみたいと思います。どうぞ。

・「推論」と「断定」の混同という地雷

 おそらく福音派・聖霊派系のクリスチャンの方々は、「終末」と聞くと、「キリストが語られた、いつか起こる世界の終り」や「将来的な患難時代の到来」などをイメージすると思います。私もそうでした。しかしちょっと視野を広げてみるならば、そう単純に割り切れない話であることに気づきます。たとえば、マタイ24章に書かれている「エルサレムの破壊」は、西暦70年に実際に起こっています。「石が崩されずに積まれたまま残ることはない」というキリストの言葉通りのことが起こり、エルサレムは破壊され、ユダヤ人は離散していきました。
 ではキリストはマタイ24章において、「2000年以上先の世界の終わり」について預言したのでしょうか? あるいは「西暦70年に起こること」を預言したのでしょうか? これは断定できない疑問じゃないかと思います。
 ということは、「この世界の終わりの日」と、キリストが24章で語られたこととは、必ずしも同一ではないかもしれない、ということです。少なくとも、その可能性があります。エルサレムが1世紀に破壊されたのは事実なのですから。

 だから従来私たち(福音派・聖霊派系)が考えてきた「終末」観は、必ずしも(部分的にでも)正しくないのかもしれません。そう考えてみる柔軟性が必要だと私は思います。

 また「携挙」という言葉一つとっても、「患難前携挙説」とか「患難後携挙説」とか考え方が分かれています。それに「患難前携挙説」が注目され出したのは、西暦3世紀頃のことです。ということは、キリストも初代教会も「患難前携挙説」を支持していたわけではないことになります。
 だから「携挙」自体が、けっこうあやふやな要素を持っている話なのです。

 というようなわけで、「終末」には「推論」が多少なりとも含まれているわけです。はっきり断定できない部分があります。しかし「終末信奉者」の皆さんに言わせると、彼らの主張は「ことごとく正しい」ということになります。ある時点でイスラエルが奇襲されて、でも奇跡的に守られて、それから携挙があって、患難時代がきて、「反キリスト」が徐々に頭角を現し、3年半の時点でなんらかの契約が反故されて、大患難がやってきて、ラッパやら鉢やら巻物やらアルマゲドンやらがあって、ものすごいクライマックス(?)の末にキリストの再臨があって・・・(多少の順序の違いはあるでしょうが)みたいなストーリーが、「紛れもない事実」「この通りのことが起こる」「だから備えよ」みたいに語られるのです(ほとんど『レフトビハインド』のストーリーラインなのですが)。

 つまり、「推論」であるはずの部分までもが、「断定」となってしまっています。なぜそんな断定ができるのでしょう? 聖書に明確な根拠があるのではありません。彼ら自身が「そうだと信じたいから」です。

・「敵」と「悪」の混同という地雷

 おそらく「終末信奉者」の皆さんからしたら、私は懐疑主義者であって、「敵」なのでしょう。
 でも、これまでの文章からわかると思うのですが、私は「イロイロな可能性があるから断定するのは危険です」と言いたいに過ぎません。だから私は厳密に言うと「敵」ではありません。同じキリスト教徒なだけです。

 でも彼らにかかると、私は「敵」のようです。そしてそれだけでなく、「サタンの手先」であり、「サタンに心を乗っ取られている」ようです。
 またそれは私だけでなく、彼らの主張に反対する人は誰でも「サタンの手先」であり、「サタンに操られている人」になってしまうようです。しかしそれは、いささか一方的というものではないでしょうか?

 そういうことを言いだすと、未信者の大半は「サタンの手先」でしょうし、ある教派のクリスチャンなんか根こそぎ「サタンの手先」になってしまいます。また彼らと同じグループの人間であっても、ちょっと違ったことを言えば「サタンに操られている」となってしまいます。最後は(突き詰めて考えれば)自分以外はみんな「サタンの手先」になりかねません。

 要するに、自分(たち)に同意しない人間はみな「敵」であり「悪」なのです。彼らにとっては。
 冒頭で、「そういう人たちは基本的に話が通じないので、私は相手にしません」と書いた理由が、おわかりいただけたでしょうか。

・「憐れみ」より「生け贄」を好むという地雷

  主が言われたのは、「わたしは憐れみは好むが、生け贄は好まない」です。意訳すると、「厳密なルールや宗教的行為に勤しむより、困っている人を助ける方が勝っている」という感じになります。
 これはまさに私が冒頭から言っていることです。「終末」や「携挙」と騒ぐより、人に会いに行く方が良い、と。

 でも「終末信奉者」の皆さんにかかると、これが逆転して、「憐れみ」より「生け贄」の方が大切になってしまうようです。終末関連の議論になった時の、彼らの怒りようや頑固さや、攻撃的な態度を見ると、そうとしか思えません。人に寛容を示すより、自分の主張や自分の聖書研究の方が大切なようです。

「聖書にこう書いてある!」と聖書をブンブン振り回す人と、困っている時に優しく助けてくれる人と、どちらが「キリスト教徒」にふさわしいでしょう。ってそんなこと尋ねるまでもないことなんですが。

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