2017年4月19日水曜日

クリスチャンの「終末」の扱い方(地雷にご用心)

 時々書いているテーマですが、クリスチャンと「終末」の関係について、改めて考えてみたいと思います。

 聖書には終末、つまり「この世の終わり」と読めるような箇所があります。黙示録はほぼその手の話に終始している感があります。他にもマタイによる福音書やパウロのいくつかの書簡、旧約聖書のダニエル書やエゼキエル書、いくつかの小預言書にも「終末」に関する記述があります(厳密に挙げればもうちょっとあるでしょうが)。

 これだけ言及されているのですから、この世界、まさに私たちが住んでいるこの世界は、いつの日にか「終末」を迎えることになるのでしょう・・・と、考えるのは、ちょっと浅はかかもしれません。立場によって、その「終末」は、歴史の中で既に通過した出来事だと解釈されることもあるからです。もちろんそうでなく「これから終末がくる」と考える立場もあるのですが。
 つまり、いくつか解釈があるのですね。

 そのどれが正しいのか、というのをここで論じようとは思いません。大変なことになるでしょうから。それに私は神学者でも研究者でもありませんから、そこまで詳しく知っているわけでもありません。

 ただ私は長くクリスチャンをやりながら、いろいろ見てきました。当然ながら良いことばかりではありませんでした。あちゃーと思うことも多々ありました。
 そのへんの経験から、「これだけは言える」というのがいくつかあります。今回はちょっとそういうのを紹介しようかと思います。何かの参考になれば幸いです。

・「終末」という地雷

 まずはじめに注意したいのは、「終末」話はクリスチャンにとってけっこう地雷だ、ということです。

 マトモに見えた牧師や教会、クリスチャングループが、いつの頃からか「終末」を強調しだすと、あれよあれよと言う間に、おかしなことになっていくのでした。そういうのを何度も見てきました。残念ながら例外がありません。実体験として、「終末」を強調しだした人たち(終末に取り憑かれたと言ってもいいかもしれません)は、遅かれ早かれ何らかの問題を起こしています。ひどくなると刑事事件に発展する場合もあります。神社仏閣に油を撒いて問題になったグループなんかはその亜種ですね。本人たちは至って真面目なのですが、はたから見れば常軌を逸しているわけです。

「終末」を強調しだす背景や動機に共通するのは、「自分たちは特別な存在だ」みたいな優越感です。
「特別な啓示が与えられた」
「真理に開かれた」
「御霊に感じた」
「悟る力が与えられた」
 など表現はイロイロですが、根っこは同じです。「自分(たち)は、他の人たちが知らない(知ることのできない)ことを知っている」という思い上がりみたいなものが、多少の差はあれ存在するのです。

 中でも特に「携挙」を言い出すと、地雷度が格段に上がります。「まもなく終末がくる!」「携挙に備えよ!」とか言い出したら、黄色信号をとっくに通り越して赤信号です。
 実際、ある人たちは「どうせ携挙されるから」という理由で年金を一円も払っていなかったり、財産の大部分を教会に寄付していたり、逆に何十年ローンを組んでマンションを(どうせ全部返済しなくていいんだという発想で)買っていたりしました。
 ちなみにそういう彼らは、今や「終末」も「携挙」も一切言いません。かつての自らの言動も「なかったこと」にしたがっています。なんででしょう?

・世界情勢に振り回されるという地雷

 次に、その時その時の世界情勢をみて、「これは聖書の◯◯という預言の成就だ!」みたいな主張をするのも地雷です。

 何年か前、イスラエルとガザ地区の戦闘が激化したことがあります。覚えている方も多いでしょう。あれを見て、「これはいよいよ終末だ」「一目瞭然だ」「ついにカウントダウンが始まった!」とか言う人たち(クリスチャン)がいました。
 でもその後しばらくして、戦闘は鎮静化しました。すでに何年も経っています。「携挙」や「終末」は起きたのでしょうか。カウントダウンはどうなったのでしょうか。

 実はこの手の話は、枚挙に暇がありません。東日本大震災の時も、911の時も、1999年末も、イスラエル建国(再建)の時も「終末だー」「カウンドダウンだー」「携挙に備えよー」みたいな騒ぎがありました。おそらく歴史の中には、似たような事例が沢山あることでしょう。
 でも、悉く間違っていました。

 それらに共通するのは、「その時その時の世界情勢をみて安易に判断してしまった」という点です。本人たちは自信満々に「神に語られた」「御霊に感じた」「霊において確信がきた」みたいなことを言っていたのですが。
 でも「神に語られた」と言っておいて実現しなかったのですから、簡単に言うと、彼らはニセ預言者なのですけれどね。

 はっきり書きますが、その時その時の世界情勢から何かを判断することはできません。単に振り回されているだけです。上に挙げたような数々の事例がそれを証明しています。人間には「それらしく見えること」が沢山あるのです。でも何一つ確証を持って言えることはありません。あるいは確証をもって何かを言うのが自由だとして、それが外れた時の責任は決して小さくありません。

 今も時々SNSで「エゼキエルの預言ガー」とか言っているのを見ますが、過去の失敗事例から少しは学んでほしいなと思います。同じことを延々繰り返しているのに気づかないのは、もはや「救いようがない」という感じです。クリスチャンだから「救われている」はずなのですが(苦笑)。

・何かと「イスラエル」を持ち出すという地雷

 3つ目は、終末と関連して何かと「イスラエル」を持ち出す、という地雷です。
 殊更にイスラエルとの繋がりを強調し、たとえば竪琴とか角笛とかを礼拝に取り入れたり、ユダヤ暦の各種の祭を祝ったり、「ヘブル語聖書研究」にハマったり、ユダヤ文化の真似事をしたり、といった感じです。その背景には「終末だから」「今こそイスラエルが重要になる」みたいな考え方があります。

 念のため書いておきますが、べつにイスラエルが悪いわけではありません。ついでに書くと「終末」が悪いのでもありません。どちらかと言うと、それらの「扱い方」に問題が起きやすいのですね。

 どんなことかと言うと、終わりの時代にイスラエルと繋がっている自分たちは本物だ、悟っているんだ、これは他の人たちにはわからないんだ、という考え方になることです。あるいは竪琴や角笛を使うのが本物の礼拝なんだ、ユダヤ暦に沿って生きるのが真のクリスチャンなんだ、ヘブル語で祈ったり歌ったりするのが次の霊的ステップなんだ、みたいな、言うなれば「イスラエル至上主義」に陥っていくことです。

 イスラエルを強調しだすと、簡単にそこに陥ってしまいます。たぶんそれは人間の弱さなのでしょう。

・原語原典がわかったところで

 というわけで、クリスチャンには「終末」「世界情勢」「イスラエル」という3つの地雷があるわけです。
 繰り返しますが、それら一つ一つが悪いのではありません。そこにハマり込んでおかしなことになった人たちがいますよ、少なくありませんよ、というだけのお話です。

 その意味で、それらは「偶像」になりえると思います。心の中で「これぞ素晴らしいもの」となってしまうのです。そしていつの間にか排他的・独善的となり、優越感と自信に満ちて、人の話を聞けなくなってしまうのです。

 ヘブル語研究をバカにするつもりも否定するつもりもありません。むしろそれは有用でさえあるでしょう。でも原語(原典)の意味がわかる、というのを殊更に特別視すると、またおかしなところに陥ってしまいます。

 キリストの教えはシンプルなはずです。その命令を行ううえで、必ずしも言語や原典の「特別な」意味を知っている必要はありません。特別な意味や深い意味がわかったところで、それを実行する能力とは関係ないからです。
 原語原典の意味がわからなければキリストの命令がわからない、実行できない、という人は、たとえそれらが完璧にわかったところで何一つできないだろうと私は思います。

4 件のコメント:

  1. 終末論については、私が所属しているカトリック教会の聖書学習会でも、ときたま話題になることがあります。地球は永遠に存在するわけではない。巨大惑星が地球に衝突するかもしれない。いつか終末が来るだろう。いつかは分からない。そんなところに落ち着きますね。エホバの本部が終末預言をしてあたらなかったのは有名な話ですし。パウロ書簡を読むと、パウロは自分が生きているうちに終末が来ると思っていたようですね。それより、主の祈りにあるように、天におこなわれるように地にもおこなわれるように、日々生きていくというのが大切でしょう。「地にもおこなわれるように」政治も社会も良くしていかなければならないということです。森友学園、教育勅語礼賛の動きなど、キリスト者として見逃せないことが多いですね。一方で、終末思想を振りまいて一儲けをはかる偽キリスト者もいるわけで難儀ですね。

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  2. イスラエルにこだわるのは、新興宗教系プロテスタントでもホーリネス系の教会に多いと聞いたことがあります。ホーリネス系は昔からイスラエルを特別な国と考えているふしがあるようで、たとえば毎週日曜日の礼拝の時に必ず「イスラエル復活の祈り」というものをやる教会もあるという話です。

    終末論ですが、これは新興宗教系プロテスタントでは終末詐欺という犯罪行為になって表に出てくるものです。終末が近いぞ~と言い出すときは、たいてい子供の教育費をそろそろ用意しておかなきゃとか、子供もあと何年かで嫁に行く(嫁を貰う)可能性があるので、式や新婚旅行や新居に費用がかかるからとか、そういうときだったりすることが往々にしてあります。
    新興宗教系プロテスタントの業界では有名な某教祖様の話ですが、世界の終わりが近いと強調する説法をなさるこの人の娘や息子は、なぜか全員高校に行っていますし、もちろん結婚もしています。
    実はこの教祖様は、教会では「終末が近いんだ!」と説法していた一方で、家では「終末なんか来ないからお前たちは安心して高校に行きなさい。結婚もしなさい。」といっていました。教会と家では正反対だったわけです。
    信者もマインドコントロールにかかった状態であったので、子供が高校に進学しても結婚しても、「これは詐欺だ。だまされた。」気づかなかったのです。悲しいことですが。

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  3. umizukichistian2017年4月21日 14:25

    聖霊派ですが...
    わたしたちの教会では、マルチン・ルターの
    「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。」
    という言葉のように、たとえ終末がちかかろうが、周りに振り回されず
    日々の生活にしっかり地に足をつけることが大切だよと学んでいます。

    聖書にあるように終末もイスラエルも大切かもしれませんが
    まず優先順位としては、わたしたちの生活の中(家庭・学校・職場)を大切にしていきたいですね。

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    1. コメントありがとうございます。
      まさにその通りだと思います。
      「永遠に生きるかのように学べ、明日死ぬかのように生きろ」というのはガンジーの言葉ですが、世界が終わるとにしても終わらないにしても自分自身が何も変わらないでいることが大切だと思います。

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