2017年4月25日火曜日

クリスチャンの「終末」の扱い方・その3

 クリスチャンの「終末」の扱い方、3回目です。

 ところで本日4月25日は、北朝鮮がミサイルを発射するかもしれない、大変な事態になるかもしれない、と懸念された日だったようです。普段テレビを観ないので、知り合いに教えてもらって初めて知りました。若干テレビ局の煽りのような気もしますが。

 ともあれ、こういう状況になると、また終末信奉に熱心な皆さんが「これは終末の合図だ」とか「終末へのカウントダウンだ」とか言い出しそうです。でももう(私が知っているだけでも)何年も同じようなことをいろんな人たちが言い続けているので、カウントダウンなんてとっくにゼロを過ぎている気がするのですが。なぜそこまで繰り返すのか、そして「終末」にこだわるのか、ちょっと理解できません。

 また、本日もそろそろ終わりそうなので、とりあえず今日のところは無事に過ごせそうです。でもそれはそれで、こんなことを言い出す輩が出てきそうです。
「私がとりなし祈ったから、主が働かれて、危機が回避されたのだ」

「終末」にしても何にしても、聖書を利用すれば何とでも言えてしまうというのはこのことです。聖書は権威ある書物のはずですが、このように濫用することもできてしまうので、そのあたりは聖書を読む一人一人が注意しなければならないと私は思います。

 まあそれはともかく、今回は「携挙」にまつわる地雷について、書きます。

・「携挙が近い」と言ってしまう地雷

 キリスト教界隈の一部では、終末論信奉者が次々と生まれています。そして先人の失敗に学ぶことなく(学べばいいのに)、新しい信奉者たちが量産されていて、今日も「携挙が近い」と言っています。

 しかし、私が知っているだけでも、20年以上前に「携挙が近い」と言い切った有名牧師がいました。今はそんなこと「なかった」ような顔で牧師を続けていますが。
 また一部で有名な渡辺ナントカ女史も2、3年前に携挙騒動を起こして、ちょっと注目を集めました。でも今は(少なくとも今は)そういう発言は控えているようです。さすがに懲りたんじゃないでしょうか。

 そういう「有名人」たちが失敗しているにもかかわらず、終末信奉者、というか携挙信奉者が後を絶ちません。そして同じように「携挙が近い」「これは終末のサインだ」を繰り返しています。どうやら彼らは自分自身が失敗しないと、学ぶことができないようです。そしてその失敗を後進に伝えることができないようです。

 そもそもの話ですが、携挙の時期について「近い」「遠い」と言及すべきではないと思います。なぜならキリストご自身が、「その日は誰も知らない」と明言しているからです。たしかに「その前兆」の話をしていますが、同時に「惑わされないようにしなさい」とも話しています。だから「その日がいつなのか」という点を掘り下げても、あまり意味がないと思います(キリストご自身もそんなことは言っていません)。それよりむしろ「どうしたら惑わされないか」を考える方が、キリストの意向に沿うのではないでしょうか。

 この「携挙が近い」という主張は、前々回の記事の繰り返しになりますが、「その時その時の世界情勢に振り回されている」だけです。戦争とか大規模テロとか大災害とか、いかにも危機らしい危機が訪れると、「終末だ」「携挙が近い」と言い出すからです。でもそれは短絡的でしょう。そんな簡単に判断できるものであれば、「その日は誰も知らない」なんてキリストは言わなかったはずです。

 またキリストが「その日は誰も知らない」と言ったにもかかわらず、「いや、聖書を注意深く読めば携挙の日がわかるんだ。主は聖徒に何事も隠されないのだから」とか言って、独自の聖書解釈を構築する人もいます。その詳しい内容はいつか機会があれば紹介するかもしれませんが、要は論理の飛躍とか、言葉遊びの類です。

 そういう論理の飛躍はいくらでもできます。前述の渡辺ナントカ女史も「携挙の日」を特定する発言をしてしまいましたが、結局何も起こらないとなると、「主が携挙を思い直されたのです」「これは主の憐れみによるのです」「私には何故だかわかりません」みたいな、都合のいいことを言っていました。聖書っぽい表現を使えば、一応何とでも言えてしまうのです。

 まとめると、携挙を「近い」とか「遠い」とか言うべきでありません。そもそも「終末」も「携挙」も強調する必要がありません。強調してしまったら、それはキリスト教信仰でなく「終末信仰」です。もはや神もキリストも関係なくなってしまいます。と私は考えます。

・ある教会の話

「終末」を強調してしまったある教会の話をしましょう。

 そこはマトモに見える教会でしたが、いつの頃からか、終末信仰に傾いていきました。毎週語られる説教は終末関連ばかりになりました。「携挙」や「艱難時代」ばかりが語られました。そして「実際的な備えをすべきだ」という話になり、都心から遠く離れた地域に倉庫を借りて、そこに食糧など備蓄しはじめました。
 礼拝もだんだん(今思うと)気持ち悪いものになっていきました。信徒たちに徐々に厳しいルールが課せられるようになりました。ミーティングに遅れたり参加できなかったりするだけで叱責されました。また祈り方や祈りの文言にまで指導が入りました。そして何か失敗してしまうと「信仰が足りない」「悪魔に攻撃されている」「もっとしっかりしろ」と責められました。
 金銭感覚もおかしくなっていきました。「教会に必要だから」「礼拝に必要だから」「主が求めておられるから」という理由で高価な機材や楽器や何やかやがどんどん購入されていきました。「必要(お金)は主が満たして下さる」というのが合い言葉みたいになっていました。

 それで最終的にどうなったかと言うと、「終末」が来る前に教会が破綻しました。詳しく書きませんが、収集のつかない事態だけがあとに残りました。

「終末」を強調すると必ずその教会みたいになる、とは言いません。でもその危険は大いにあると思います。そしてこの教会は一つの教訓です。これを無駄にしてはいけないと私は思います。
 先人に学べない終末信奉者でなく、よく学ぶキリスト者であってほしい、と皆さんに願うばかりです。

2 件のコメント:

  1. >20年以上前に「携挙が近い」と言い切った有名牧師がいました。今はそんなこと「なかった」ような顔で牧師を続けていますが。
    これは有名無名を問わず掃いて捨てるほどいます。ついでにいえばキリスト教系だけではなく、神道系でも仏教系でも似たような話がいくらでも転がっていたのが、二十世紀の終わりでした。やはりノストラダムスの大予言の影響でしょう。

    > またキリストが「その日は誰も知らない」と言ったにもかかわらず、「いや、聖書を注意深く読めば携挙の日がわかるんだ。主は聖徒に何事も隠されないのだから」とか言って、独自の聖書解釈を構築する人もいます。
    プロテスタントはそれぞれが勝手に聖書を解釈していいということになっていますので、当然のごとく「困った解釈」をする困ったちゃんがたくさんいます。

    ちなみに終末を強調する新興宗教系の宗教団体ですが、これは二十世紀の終わり頃に突然誕生したものではなく、実は昔からよくあったものでした。
    大正時代の中期にも終末論ブームが起こりました。その時に有名になって教団が成長したのが、ホーリネスや大本でした。前者は再臨、後者は世の立て替え建て直しを大声で訴えていました。
    いつの時代にもおかしな新興宗教が誕生し、そしてそんなものに騙されるお馬鹿さんがいるものです。

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  2. >・ある教会の話
    酷い牧師ですね。
    信徒も自分の意思で牧師の言う事に従っているのか、それとも嫌々させられているのか。一歩間違えれば自分の気がつかないうちに牧師側に立って、同じ信徒を傷つけてしまう可能性があるので、組織に流されないで自分でしっかり見極める力が必要ですね。

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