「自分が頑固になって信仰について話している時、御霊に導かれている、と感じます。
その間の記憶が曖昧で、ふと我に返る、という経験をよくしますから」
この方はどうやら、信仰について誰かと議論しているとき、いくらか恍惚状態(?)になっているようだ。そしてふと我に返ると、自分が何を話したのかよく覚えていない、ということがあるらしい。そしてそれを「御霊に導かれている」からだと結論づけている。聖霊が自分を通して語っている、と考えているのだろう。
皆さんは、これをどう考えるだろうか。
最初にことわっておくと、この発言者個人がどうこうという話ではない。これは一部、おもに聖霊派の牧師やクリスチャンに共通してみられる、ちょっと変わった傾向の1つである。その傾向を上記の発言が端的に現していると思ったので、取り上げてみた次第である。
・第一の問題点
この発言に対して私の思うところを率直に書くならば、まず第一に、「話している間の記憶が曖昧になる=御霊に導かれて語っている」とする根拠がない、ということだ。
記憶に残らないような曖昧な意識状態で話すことが、(たとえ信仰の話であろうが自分がクリスチャンであろうが)全て「神様からの言葉」だとはならない。もしなるなら、居酒屋で強い酩酊状態になってブツブツ言ってる酔客の皆さんや、手術後の半覚醒状態でとりとめのない言葉を呟いている患者さんたちも、「神様からの言葉」を代弁していることになる。あるいは精神症状からくる独語なんかも「神様からの言葉」になりかねない。「記憶が曖昧な状態」であるのは、どれも同じなのだから。
・第二の問題点
第二の問題点は、「信仰についての自分の主張は正しい」と信じ込んでいる点にあると思う。だから「御霊に導かれている」と言い切ることができるのだ。クリスチャンどうしの議論であるはずなのに、自分だけが「聖霊に導かれて」いて、相手が「導かれて」いないとする根拠は、いったいどこにあるのか。
・第二の問題点
第二の問題点は、「信仰についての自分の主張は正しい」と信じ込んでいる点にあると思う。だから「御霊に導かれている」と言い切ることができるのだ。クリスチャンどうしの議論であるはずなのに、自分だけが「聖霊に導かれて」いて、相手が「導かれて」いないとする根拠は、いったいどこにあるのか。
そこにはたぶん、下記のような思考プロセスがあると思う。
①信仰について議論になるとき、御霊が自分の口を通して語られる。
↓
②自分自身はその間の記憶が曖昧になっている。
↓
③その間の自分の主張は「神の言葉」なのだ。
↓
④それは「神の言葉」なのだから、間違っているはずがない。100%正しいのだ。
↓
⑤自分の信仰についての主張は正しいのだ。
という具合。
しかし、これはいささか乱暴な論理であろう。まさに本人自身が言っている「頑固な主張」であり、相手の意見を聞く耳が一切ないものだと思う。自分の主張が正しいんだから黙って聞け、と言っているのと同じなのだから。神様を無理やり自分の側に付けて、正義の信仰者を気取っているように思える。こういう人と、どうやったら公平な議論ができるのだろうか。
旧約はともかく新約を見てみると、「自分の舌を制御すること」が勧められている。つまり理性をもって、また知性をもって、個人個人が、何を語るべきかを制御することが勧められているのだ。「異言」にしても同じで、(現在も「異言」が存在すると仮定して)それをコントロールすることが求められている。「他の人が異言で語り出したらあなたは黙りなさい」という意味のことが書かれているから、「異言」も意識的に、秩序をもって語る種類のものであろう。
つまり、クリスチャンは曖昧な意識状態で何かを語るものではない。自分の口から発することには責任を持たなければならない。何を話したのか覚えてないなんてことは(もちろん人間だれしもそういう時もあるだろうけれど)、極力あってはならないと私は思う。まして自分の信仰に関する話であるなら、尚更。
・第三の問題点
上記の発言の第三の問題点は、体験主義に過ぎる、という点だと思う。
「神が私を操り、私の口を通して語られた」というのは、なんとなく「信仰的」とか「霊的」とか感じるかもしれないけれど、いわゆる「霊媒」と同じだ。『エクソシスト』のようでもある。本人は「御霊に満たされた状態」を意識しているのかもしれないけれど、「御霊に満たされた状態=なにかに憑依された状態」ではないし、「意識が曖昧になった状態」でもない。聖霊に満たされようが何に満たされようが、何を語るべきで何を語るべきでないかを決めるのは自分だし、その責任をとるのも自分だ。仮にどんな「啓示」があったとしても、それを語るのは自分自身であって、「神様がそう語らせた。自分のせいじゃない」と言うことはできない。あくまで話すのは自分なのだから、神様に責任転嫁することはできない。
同じような現象について歴史的な実例(伝承)をみてみると、「恍惚状態になって預言しだした」人として、イスラム教の開祖であるムハンマドが挙げられる。彼は天使に啓示されて、キリストに代わる預言者として活動を始めた、とされている。それがキリスト教界の側から肯定されるものなのかどうかは、論じるまでもないだろう。
①信仰について議論になるとき、御霊が自分の口を通して語られる。
↓
②自分自身はその間の記憶が曖昧になっている。
↓
③その間の自分の主張は「神の言葉」なのだ。
↓
④それは「神の言葉」なのだから、間違っているはずがない。100%正しいのだ。
↓
⑤自分の信仰についての主張は正しいのだ。
という具合。
しかし、これはいささか乱暴な論理であろう。まさに本人自身が言っている「頑固な主張」であり、相手の意見を聞く耳が一切ないものだと思う。自分の主張が正しいんだから黙って聞け、と言っているのと同じなのだから。神様を無理やり自分の側に付けて、正義の信仰者を気取っているように思える。こういう人と、どうやったら公平な議論ができるのだろうか。
旧約はともかく新約を見てみると、「自分の舌を制御すること」が勧められている。つまり理性をもって、また知性をもって、個人個人が、何を語るべきかを制御することが勧められているのだ。「異言」にしても同じで、(現在も「異言」が存在すると仮定して)それをコントロールすることが求められている。「他の人が異言で語り出したらあなたは黙りなさい」という意味のことが書かれているから、「異言」も意識的に、秩序をもって語る種類のものであろう。
つまり、クリスチャンは曖昧な意識状態で何かを語るものではない。自分の口から発することには責任を持たなければならない。何を話したのか覚えてないなんてことは(もちろん人間だれしもそういう時もあるだろうけれど)、極力あってはならないと私は思う。まして自分の信仰に関する話であるなら、尚更。
・第三の問題点
上記の発言の第三の問題点は、体験主義に過ぎる、という点だと思う。
「神が私を操り、私の口を通して語られた」というのは、なんとなく「信仰的」とか「霊的」とか感じるかもしれないけれど、いわゆる「霊媒」と同じだ。『エクソシスト』のようでもある。本人は「御霊に満たされた状態」を意識しているのかもしれないけれど、「御霊に満たされた状態=なにかに憑依された状態」ではないし、「意識が曖昧になった状態」でもない。聖霊に満たされようが何に満たされようが、何を語るべきで何を語るべきでないかを決めるのは自分だし、その責任をとるのも自分だ。仮にどんな「啓示」があったとしても、それを語るのは自分自身であって、「神様がそう語らせた。自分のせいじゃない」と言うことはできない。あくまで話すのは自分なのだから、神様に責任転嫁することはできない。
また「霊媒」は神に忌み嫌われるべきものとして聖書に登場しているはずだ。その意味でも、「何かに憑かれたような状態」で話したことが神からのものだと肯定することはできないと思う。
同じような現象について歴史的な実例(伝承)をみてみると、「恍惚状態になって預言しだした」人として、イスラム教の開祖であるムハンマドが挙げられる。彼は天使に啓示されて、キリストに代わる預言者として活動を始めた、とされている。それがキリスト教界の側から肯定されるものなのかどうかは、論じるまでもないだろう。
それを考えても、「恍惚状態=御霊に導かれた状態」とは言えないと私は思う。
・クリスチャンの「優劣」?
以上のように、この発言には、はじめから自分を神の側に立たせ、あるいは神を自分の側に立たせて、自分の正当性だけを主張して相手を退ける姿勢が見える。でもその正当性には何一つ根拠がない。だから痛いだけの発言なのだけれど、本人にもその仲間内にもそういう自覚はない。私はそういう態度は独り善がりな信仰でしかないと思う。
もし自分の方が優れている、信仰に進んでいる、真理がわかっている、と思っていて、それが事実であるなら、そこまで頑なになって自己の正当性を主張する必要なんてない。むしろ自分より劣っている人たち、未熟な人たち、わかっていない人たちを思いやるべきだと思う。それが「優れている側」の役目であろう。意固地になって自分の信仰はどうだとか言い張るのは、それ自体が信仰的な未熟さを現しているような気がする。
そしてそれ以前にそもそもの話、クリスチャンとしての「優劣」にこだわるのは、「人を自分より優れたものと思いなさい」というキリストの勧めに、思い切り反していると思うけれど?