キリスト教の、というか宗教の「伝道」について

2016年11月30日水曜日

雑記

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■まず反省

 このところ個人的にしばらく忙しかった。久しぶりのブログ更新になってしまった。ずっと書きたかったけれど書けない状況だったのは、私自身つらかった。

 で、何事もなかったように書き始めるけれど、キリスト教の、というより宗教の「伝道」について。

■本日遭遇したある「伝道」風景

 本日、SNSにこんな投稿をしてみた。

天◯教の方々が路傍で読経(?)して伝道(?)してるのを見て思ったんだけど、自宗教を熱心に表現すると「あー宗教の人ね(遠い目)」と倦厭される。かと言って宗教っぽさを出さないで楽しげに何かを表現すると「なんか胡散臭い」と思われる。さてキリスト教の伝道とはいかに。」

 今日、駅前を歩いていると、天◯教の旗を掲げた数人の黒装束の男性が路傍に並んで立っていて、お経(?)のようなものを詠んでいた。彼らは笑顔のような真顔のような、よく読めない表情をしていた。私の知る限り、誰も見向きせず素通りしていた。当然ながら私も。

 正直なところ、それが「伝道」なのかどうかわからない。彼らの目的が何なのかわからない。もしかしたら路傍で読経(?)するのが修行の一環なのかもしれないし、あるいは読経(?)すること自体で何らかの満足感が得られるのかもしれない。べつに彼らは「伝道」なんて考えていなかったかもしれない。

 しかし路傍(しかも駅前)という公共の場所で、不特定多数の人々に見聞される形で自宗教の何か(この場合は読経のようなもの)を発信するのは、いわゆるキリスト教で言うところの「伝道」に近いものがあるだろう。あるいは「伝道」という形式でないにしても、自宗教の何かを衆人にアピールする意図があるはずだ。そうでないならわざわざ駅前に出てくる必要はなく、自宅や寺(?)に篭ってすればいいのだから。

 で、べつに天◯教の話がしたいわけではない。その様子から、「伝道」というものについて考えさせられた、という話がしたいのである。

■よくある「伝道」

 SNSへ投稿した上記の内容の通り、「伝道」とは、熱心にやればやるほど「あー宗教の人ね」と倦厭されやすくなると思う。しかしかと言って、宗教であることをオブラートに包んで楽しげな何かを演出すると、「胡散臭い」という印象を与えるだろう。そして事実、その「楽しげな何か」に引っかかって教会なり何なりに連れて行かれた人が結果的に「なんだ宗教かよ」と騙されたように感じる事例もあることから、「胡散臭い」のは印象でなく実態なんだと思う。

 よくクリスチャンの証で、「パーティだと言うので行ってみたらそこは教会でした」という下りがある。それは自分がクリスチャンになったキッカケを面白おかしく紹介しているだけだと思うから、決して悪い話ではないかもしれない。けれど、一歩まちがえれば詐欺とか嘘つきだとか言われかねない「伝道方法」がキリスト教会では割と普通に行われている、という事に他ならないだろう。関係者はよくよく注意した方がいいと私は思う。

 で、じゃあキリスト教の「伝道」ってどうしたらいいんだろう、というのが今日の本題。
 と言っても私に何か素晴らしい答えや解決方法があるわけではないので、期待しないでいただきたい(誰もしてないって)。
 ただ考え方においては言いたいことがある。「伝道」とはグイグイ押し付けるものでなく、またドラマチックに話を盛って感動させるものでもない。テクニックや方法論でもない。生身の自分の姿を見せるものだと思う。

■私個人の考え方

 グイグイ押し付けられて信者になった人は、自分も誰かにグイグイ押し付ける伝道方法を採用するだろう。ドラマチックな演出で信者になった人は、自分もドラマチックな演出にこだわるようになるだろう。テクニックや方法論で信者になった人は、やはりテクニックや方法論に走るようになるだろう。

 それらが決して悪いという話ではない。けれど、じゃあ果たして良いものかと問われたら、皆さんはどう考えるだろうか。
 私はそれらは「伝道」として上策だとは思わない。

 では私が提示したい「伝道」の考え方が何かと言うと、「生身の自分の姿を見せる」ことである。

 要は、「特に何もしない」ということ。あるいは「人に見られた状態でクリスチャンとして生きる(働く)」ということ。

 これは決して積極的な伝道方法ではないし、いろいろ反対意見もあるだろうけれど、一番堅実で現実的で(かつ常識的で)、結果的にわかりやすい方法ではないかと私は考えている。

 これは童話でたとえれば『太陽と北風』が当てはまると思う。誰かのコートを脱がせたかったら、力任せに脱がすより、自分から脱ぐように仕向けた方がラクだということ。
 あるいは日本神話でたとえれば、天の岩戸に閉じこもったアマテラスオオミカミの話。無理やり岩戸をこじ開けるのでなく、自分から出てくるように仕向ければいい、ということ。
 あるいはもっと単純に、現代社会におけるセールスの話。家々に訪問していらない商品を押し付けなければならないセールスマンと、黙っていても売れていく大人気商品を扱うセールスマンとで、どっちがラクか。客に買わせたかったらどちらの商品が良いのか。

「仕向ける」とか「ラク」とか、ちょっと不謹慎な表現を使ってしまったけれど、本質的なところは感じていただけただろうか。私たちクリスチャンの「伝道」の武器である「福音」は、私たち自身は至高の品だと信じているけれど(だからクリスチャンなのだ)、世界中の誰もがそう信じているのではない。力任せに押し付ければ信じるものではない。楽しげな装飾で正体を隠したらウソになる。

 それより、自分自身が心から「福音」を良いものと思っていて、それに従って生き、それに従って社会に仕えている、という姿を単純に見せる方が、一般社会の人々にはわかりやすく、ダイレクトに伝わるのではないだろうか。という話。

■むすび

 私が今日遭遇した天◯教の黒装束の男性たちにしても、その唱えるお経(?)より、彼らがどんな人間でどんな生き方をしているかの方が、私には興味がある。たとえば彼らが慈善活動とか、画期的で革新的な社会活動とかを熱心にしていたとしたら、私は彼らの話を聞きたいと思うだろう。彼らの方から来なくても、私の方から出向いて行って話を聞きたいとさえ思うかもしれない。

「伝道」とは本来そういうもんじゃないかな、というのが今日の私の個人的な感想なのであった。

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