キリスト教カルトと非カルトの境界線

2016年11月18日金曜日

カルト問題

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 カルト化教会とそうでない教会の境界線はどこにあるのか。どこを越えたら「普通の」教会がカルト化教会になるのか。その変化のタイミングやキッカケは何なのか。そういうことがわかっていたら、あるいは教会のカルト化は防げるのかもしれない。という期待を込めて、今回はその点について考えてみたい。

 まず初めに明確にしておきたいのは、「普通の」教会とカルト化教会は地続きで繋がっているということだ。ある教会が初めからカルトで、そうでない教会には関係ない話、なのではない。初めはマトモだった(少なくともそう見えた)教会が、徐々に変質していくのである。しかもその変化は外部から見ても内部から見てもよくわからない。
 実際、カルト被害者に話を聞いても、「いつの間にあんなことになってしまったんだろう」というような話を聞く。だからその意味で、あらゆる教会、あらゆる牧師にカルト化の危険性があり、絶対大丈夫と保証することはできないと思う。
 もっとも、実際的にはその可能性がものすごく低い、ほとんどあり得ないという教会もあるだろうけれど。

■カルト化の危険因子3つ

 私が思うに、教会のカルト化の危険因子(リスクファクター)は3つである。この3つが揃うと、カルト化が一気に進行することがある。順番に紹介してみよう。

①教え、教義、聖書解釈の問題

 教えの誤りの(最近の)代表格を1つ挙げると、たとえば「繁栄の神学」がある。「繁栄の神学」とは、簡単に言えば、「クリスチャンは経済的に繁栄して社会的にも成功しなければならない」という信仰だ。物質的にも霊的にも祝福され、財産や地位や名誉を得、大いに繁栄し、その力でこの世を支配していくことが目標とされている。これはキリスト教っぽくカモフラージュされているけれど、いわゆる成功哲学の一種である。
 これはカルト化教会でよく採用されている信仰スタイルだ(キリスト教信仰ではない)。だから信徒たちは金銭的に搾取され、教会の利益のために無償で長時間働かされる。そしてその全てが「訓練」であり、「成長のため」であるとされる。

 もちろん「繁栄の神学=カルト化」ではない。カルト化教会は他にもユダヤ主義的だったり、神秘主義的だったりする。異言や預言や癒しなどを重視する体験主義的でもある。いろいろな教え(自己啓発ふくむ)の混合でもある。それら一つ一つの是非をここで論じることはできないけれど、それらはしばしばカルト化の温床として利用されている。

②教会リーダーの人間性の問題

 教会リーダー(多くは牧師)の人間性は、教会にとってきわめて重要である。リーダーがどんな性格傾向か、どんな気質か、どんな種類の弱さがあるか、どんな強味があるか、といったことが、ほとんど教会の運命を左右すると言っても過言ではない。もちろん教会政治の在り方(後述)によってリーダーの権限は変わるのだけれど、それでもリーダーの影響は大きい。

 ただ、人間性というのはなかなか見えてこない。ある程度、判断するのに期間を要するのがほとんどだ。性格的な欠点、弱さなどのネガティブな情報なら尚更である(牧師はプライドが高くなりやすいから、そういうネガティブなものは隠したくなる)。また牧師は弱さに陥っている時に助けを求めづらい。だから牧師が誘惑に陥りそうになっていたり、実際に陥ったりしていても、周囲にはほとんどわからない。糖尿病や高血圧症などの生活習慣病と同じで、症状が現れた時には病状はかなり進行してしまっている。

 実際、暴行や詐欺などの犯罪を犯してしまった牧師が今までにも沢山いたけれど、彼らが何の促しもキッカケもなく自ら罪を告白した、というケースは聞いたことがない。大抵は告発され、訴えられ、暴かれている。発覚してなお否認することもある。

 で、カルト化しやすいリーダーの性格傾向とは、ずばり「平気でウソをつく」という点だ。この「ウソ」とは、自分にとって不利な情報を隠すというだけでなく、物事をかなり誇大して言ったり、装飾したりするのも含んでいる。
 たとえば、自分にとって都合の悪い信徒を教会から追い出しておいて、皆には「彼は自分から去って行った。私は一生懸命止めたんだけど」みたいなこと言う。あるいは大企業の幹部とかどこかの政治家とかとちょっと挨拶しただけなのに、「○○さんとじっくり話して親交を深めることができた。強い繋がりができた」みたいなことを言う。自己顕示欲が強いと言ってもいいかもしれない。

③教会政治、意思決定プロセスの問題

 教会全体の意思決定をどのようなプロセスで進めるか、という点において極端にリーダーの権限が強いと、カルト化が進行しやすい。なぜならリーダー(牧師)の意向ばかりが反映され、それを止めるシステムが働かないからだ。仮に役員会があってそこで議決されるにしても、役員会自体が形骸化している場合や、ほとんど牧師の言いなりになっている場合もある。だから役員会があるから、長老たちがいるから、いろいろなミーティングをしているから、ということで安心はできない。実質的な意思決定がどこで成されるか、という点が重要になる。

 以上、教えの問題、リーダーの人間性の問題、教会政治の問題の3つが全部揃うと、その教会は遅かれ早かれ何らかの問題を起こし、あるいはカルト化していくと私は考える。たまたま別の何かの要因が重なってカルト化しないにしても、不健全であるのは間違いないと思う。

■では教会はいつカルト化するのか

 初めに書いたように、どの教会もカルト化と地続きで繋がっている。そしてその変化のタイミングは、外部から見ても内部から見てもわかりにくい。外部から見てわかりにくいのは、教会の内情がイマイチ見えないからだ。内部から見てわかりにくいのは、そこにドップリ浸かっていて本質的な変化が見えなくなっているからだ。 だから変化のタイミングはこれと断言できないかもしれない。

 しかし上記の3つの危険因子が揃ったかどうかは、ある程度客観的に測ることができるだろう。ある意味、そのタイミングがカルト化の始まりと言っていいかもしれない。

 もちろんこれらの因子が揃うかどうかは一信徒が決められることでなく、止めるのも難しいだろう。
 だから私が強調したいのは、信徒1人1人が積極的に、批評的に考えることである。牧師が言うから、リーダーが言うからと何でもハイハイ返事するべきではない。そこで思考停止してはいけない。「でも牧師に文句を言うなんて」と思うかもしれないけれど、べつに文句を言えという話ではない。牧師が言った〇〇は 本当にそうなんだろうか、違う見方や考え方はないのだろうか、それに対して自分の感覚や感情はどう感じているだろうか、心から納得しているだろうか、と、まずは考えることを勧めているのである。

 実際的な話、教会がカルト化するとしたら、それを信徒1人で止めるのは不可能に近い。カルト化するものはカルト化する。でもよくよく考えることは1人でもできるし、相談相手を探すこともできる。必要とあれば教会を離れることもできる。教会を守ることはできなくても、自分自身を守ることはできる。あるいは多くの信徒が「これはおかしい」と判断して教会を離れていくなら、教会として成り立たなくなり、結果的にカルト化を防げるかもしれない。

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