2016年11月15日火曜日

「終末信仰」について

 今回はキリスト教の「終末信仰」について、思うところを書いてみたい。

「世の終わりが近づいた」というのは新約聖書にあるキリストの言葉である。キリストはいわゆる「世の終わり」についても語っており、マタイ24章あたりにその詳細をみることができる(他にもあるので興味のある方は探してみたらいいと思う)。

 終末についてキリストが聖書中で明言しているのは、いつか世の終わりが訪れることと、キリストの再臨があることである(他にも聖書を俯瞰すると、終末には患難時代や千年王国が訪れると読むことができるけれど、そこにはいくつかの解釈があるので、「キリストが明言していること」としては紹介しない)。

 だからその意味において、私たちは「終末信仰」を持っておくべきだと思う。あるいはそこに期待をかけておくべきだ思う。つまり私は「終末信仰」そのものを否定する立場でない、ということを最初に断っておく。

 という前提のもとで書くけれど、昨今、一部の教会やクリスチャンの間で、ちょっと行き過ぎた「終末信仰」が語られているように思う。

■行き過ぎた「終末信仰」

 その端的な例を書くと、「◯年の◯月に携挙が起こると示されました」みたいな発言である。
 終末のタイミングは「誰も知らない」とキリスト自身が明言しているにもかかわらず、「いえ、忠実な聖徒には事前に示されるのです」みたいなことを彼らは主張する。そしてその◯年◯月に何も起こらないと、その理由として「神様が思い直されたのです」みたいなことを言う。
 彼らはそんなことを年中繰り返している。毎年秋頃(ユダヤ暦の新年である9月が多い)になると、判で押したように「世の終わりが・・・」と言い出して、時期が過ぎると「主の憐れみによって回避されました」みたいなことを言う。

 ただそこまで行き過ぎてしまうと、信じる人は少ない(それでも信じる人はいる)。あるいは初めのうちは信じてしまっても、途中からおかしいと気づく。
 それはもはやキリスト教というより、何かの新興宗教の範疇に入りそうでもある。

 ただ私が思うに、より問題が大きいのは、そこまで行き過ぎていない、でも若干行き過ぎている「終末信仰」である。

■若干行き過ぎている「終末信仰」

 そこまで行き過ぎていない彼らは、自分たちを「世の終わりに力強く立つ教会」とか、「終末の大リバイバルの中心となる教会」とかと表現している。終末を強く意識した教会群である。世の終わりじゃなかったら力強く立てないんですか? って私は思うんだけど。

 彼らはほとんど口癖のように「世の終わりが近いから◯◯しよう」という構文を使う。そして「神様に褒められるようなクリスチャン」になろうとして頑張る。一生懸命礼拝して、祈って、聖書を読む。罪、あるいは罪っぽく思えるものを排除し、「きよめられた存在」になろうとする。「この世と調子を合わせてはいけない」という聖書箇所を拡大解釈し、あらゆる俗世的なものを断絶しようとする。そして自分がどこまで信仰に進んだか、どれだけ神の御心に近づけたか、みたいな評価を絶えず気にしている。

 でも冷静に考えてみれば、「終末だから◯◯しよう」というのは、「終末じゃなかったら◯◯しない」というのに等しいのではないか。という疑問があると思う。

 その◯◯とは、自分にとって何なのか。
「終末だから」しなければならないことなのか。
 あるいは「終末でなくても」したいことなのか。

 もし「終末だから」しなければならないとしたら、それは神に対する信仰というより、「終末そのものに対する信仰」になっている気がする。

 たとえば、これは以前にも使ったことのある例えだけれど、試験の前だから勉強する子と、試験がなくても勉強する子とがいるとしたら、どちらが本当の「勉強好き」だろうか。間違いなく後者であろう。
 では同じような話で、神様により忠実なのはどちらのクリスチャンだろうか。「終末だから」隣人を愛する人と、「終末と関係なく」隣人を愛する人とでは。
 私が問題視する「若干行き過ぎた終末信仰」とは、まさに前者のことである。

■本末転倒に陥りやすい信仰

 こういう本末転倒は、私たちが陥りやすい落とし穴だと思う。

 前回紹介したハックルベリーフィンの話もそうだ。隣人を愛することでなく、隣人を裏切ることで「神に仕えてる」と信じ込んでしまう。あるいはユダヤ人や黒人や同性愛者を迫害することで「神に仕えている」と信じ込んでしまう。古くはキリストを迫害したパリサイや祭司たちもそうだった。キリストを迫害することこそ神への奉仕だと彼らは信じ切っていた。

 だから私たちは「終末信仰」を持つべきだとしても、行き過ぎては良くないと思う。目的を見失ってしまうから。神に忠実であるべきだけれど、何が忠実であることなのか、時々考えた方がいいと思う。方向がズレていくのは早いから。

 いわゆる「終末研究」に熱心な人もいて、それはそれですごいとは思うけれど、同時に何の意味があるんだろうとも思う。研究が無意味とは言わないけれど、そういう視点のみで聖書をこねくり回し、あーでもないこーでもないとやったところで、いったい何になるのだろうか。

 これも毎度書いていることだけれど、キリストが終末について注意を促しているのは、具体的にどういう備えをしろとか、信仰的にどれだけ成熟しろとか、そういうことではない。ただ「惑わされないようにしなさい」とだけ言っている。私はそれで十分だと思うのだけれど、ダメだろうか?

1 件のコメント:

  1. 確かに沖縄の婆原彰晃のようなのを、「行き過ぎた終末信仰」と呼ぶのでしょう。これはたいてい終末詐欺を伴うものですが、基本的に電波系基地外ともいうべき人々がほとんどです。
    よって新興宗教系プロテスタントの悪行に慣れてくると、「あ、また終末詐欺やってるバカがいるよ~」とせせら笑って、おしまいにしてしまうこともできないわけではありません。

    現実問題において困ったのは、「若干行き過ぎている終末信仰」のほうかもしれません。これは基本的には電波な度合はさほど高くないことがほとんどです。
    行き過ぎた人たちは、聖職者としてやっている人が大半ですので、こちらのほうも「新興宗教系のプロテスタントには頭のおかしい聖職者が多いからね」で済ませてしまえますが、若干行き過ぎた人たちは、たいがいの場合は聖職者ではなく、毎日普通に社会で働いている人たちだったりします。
    前者のような聖職者はこっちも身構えますが、後者はそういったことがなく警戒心がかなり薄れてしまいます。

    新興宗教系のプロテスタントの団体の中に、「終末が近い今だからこそ、われわれクリスチャンが・・・」といやに力入ってるなあな感じで物申す人たちがいます。
    こういう人たちは意外と怖いもので、自分の周囲に常にアンテナを張っていて、病気の人や悩んでいる人をみつけると、「困っている人に寄り添う」という感じですり寄ってきて、自分の掌中に収めてしまうのです。
    後者の人たちはあなたの周りにもきっといます・・・

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