神による「大逆転」

2016年11月2日水曜日

雑記

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 聖書を読んでいると時々、神様は「大逆転」が好きなのかな、と思うことがある。
 虐げられた人たちが後になって形成逆転する、という展開がしばしばあるからだ。

 たとえば創世記でいえばノア。方舟を造っている最中、彼は周囲からバカにされ、変人扱いされていたと考えられる。そうでなくても好意的に見られていなかったはずだ。しかし実際に洪水が起こったとき、立場は逆転した。
 あるいは兄弟たちに売られたヨセフ。エジプトに奴隷として連れて行かれたけれど、そこで大臣となり、王に次ぐ権力を得た。後に兄弟たちが飢饉で苦しんだ時、彼らの命はヨセフの手の中にあった。
 またはダビデ。家族から軽んじられ、来る日も来る日も羊の番をしていたけれど、後にイスラエルの王となった。
 他にもヨナ、ギデオン、ルツ、ダニエルなどなど。神様が「大逆転」が好きかどうかは置いておくとしても、虐げられた人たちをそのままにされないのが、神様の基本姿勢なのではないかと思う。
 新約のキリストの行動を見てもそれが言えると思う。彼は弱者の味方だった。虐げられ、あるいは差別された人々に寄り添った。

 私が知る限りでも、神様は虐げられた人たちをそのままにはされない。あるいは虐げる人たちを、そのままにはされない。
 ここでよく取り上げているカルト化教会についてもそうだ。いくつかの教会、あるいは牧師たちはその悪事が発覚し、その立場を追われている。彼らの多くは決して十分な社会的制裁を受けておらず、法的に罰せられてもいないけれど、少なくともその悪事を延々と続けられる状態からは追いやられた。

 もちろん、まだ発覚しておらず、問題化されていない牧師も沢山いると思う。だから「必ず正義がなされる」とは言えない。けれど、諦めるべきではないと私は思う。
 私の知るケースでも、問題が発覚して処分を受けた牧師は、それまで十年以上かかっている。何年も何年も信徒を騙し続け、教会を綺麗ごとで飾り、美しいメッセージを発信しながら、そのくせ影でとんでもないことをしていた。そんなことまったく想像しない信徒たちは、「訓練」と称する過重労働や暴言に長年忍耐し続けた(中には暴力を振るわれ続けた人もいる)。
 そんな状態が十年以上続いた。信徒たちはそういうのを全部「神様のため」「これが本当の信仰」と信じていた。しかしある日突然、まったく逆の事実を突きつけられた。すなわち牧師がきよくも正しくもなく、むしろ悪事にまみれ、それを巧妙に隠し続けていたのだと。「神に語られた」と言っていた諸々が、実はそうではなかったのだと。

 だから長い時間がかかったとしても、不正、特に教会における不正には、神様の介入が起こるのだと私は思う。
 もちろん歴史を見れば、また現状を見る限り、虐げられた人たちが、必ずしも後に報われる訳ではないのだけれど。


 聖書を読んで思うことのもう一つは、神様のなさることはイマイチわからない、ということだ。
 たとえば、なぜヨブは苦しまなければならなかったのか。たぶんこう聞くとイロイロしたり顔で説明しだす人がいそうだけど、私が聞きたいのはそういうウンチクではない。
 なぜヨブみたいな人が、あんなに苦しまなければならなかったのか。なぜヨブの子たちは突然死ななければならなかったのか(それは悪魔の仕業だと言うかもしれないけれど、それを許可したのは神様だ)。
 あるいは、なぜディナやタマルは強姦され、しかもそれを聖書の記録に残されねばならなかったのか。
 また現代に話も戻すと、なぜカルト化教会が十年も二十年も放置され、そこで信徒たちが苦しまねばならないのか。
 そして現在進行形で苦しめられている人たちは、いつまでそれが続くのか。
 悪事が発覚する牧師と、発覚しない牧師がいるのはなぜなのか。

 いろいろわからない。

 ただ、繰り返すけれど、諦めるべきではないと思う。
 時間がかかるかもしれないけれど、神様の介入があるはずだから。そしてカルト化教会だけの話でなく、また特定の何かの話でなく、あるいはご利益主義的な信仰でもなく、いつか神様の介入があると信じ続けることが、クリスチャンの持ちうる希望ではないかと私は思う。

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